第四章


 ◇澤田隼八の時間軸

「栗原智世……」
 彼女の名前を口ずさむ。僕は今の方がもっと彼女を好きになっている。
 もう一度あの出会いを振り返る。
 猫を追いかけたあの時、栗原さんと出会って、僕の心臓は跳ね上がり、いてもたってもいられずに感情のままに行動した。
 初恋の人と言ったとき、僕は栗原さんを前にして気持ちが高ぶってしまった。それを言った後で、栗原さんに初恋の事を詳しく訊かれて、そこでなかった事にしていた事故の事を話す羽目になってしまった。
 ずっと記憶の奥にとどめて掘り起こすことなく埋めていたのに、口に出したとたんあっさりとあの時の事を思い出して、僕は苦しくなる。その後は言いたくなくなって黙ってしまった。
 でもそんな僕の態度など気にせず、栗原さんはあっけらかんとしていて、僕の言った事を茶化した。
 それで少し気が楽になって、ただ笑って誤魔化した。
 そして僕に名前を教えてくれたとき、ああ、この人と知り合いになれたんだと、それを素直に喜んだ。
 僕たちはお互い猫を追いかけてきた事を知り、その猫の色が定まらない事をいいあった。
 その時だ。辺りが急におかしくなったのは。
 でも僕はその時、まだ事態の重さに気がつかなくて暢気にしていたと思う。
 それよりも栗原さんと長く一緒にいられることにちょっとドキドキしていた。
 栗原さんが辺りを探っている間、僕はその彼女の様子を眺めていた。
「やっぱりなんかおかしい」
 栗原さんがそんなことを言うから、僕も和菓子屋さんを覗き込んだけど、そんなに心配することないという代わりに「お菓子屋さんだけにお菓子い?」と茶化 してみた。不安にならないように気軽に考えようっていう意味だったのだけど、真顔の栗原さんを見てこれはヤバイという気持ちになって、ちょっと反省した。
 栗原さんは自然体で気を遣うことなく明るい女の子だった。
 初めて会ったときは、虐められて目だけがきつくて踏ん張っている様子だったけど、笑うと本当に可愛い人だ。あの明るい瞳の虹彩が僕を捉えると、魅了する輝きを放つから、僕はそれが琥珀みたいだと思っていた。
 その後ぶつかったことで、見えない壁を見つけた。そこからはゲームの世界に入ったようなアドベンチャーだった。
 栗原さんがいたから、楽しいとまず思ってしまったこと、僕は置かれていた状況を楽観視しすぎていた。
 事故で足を失ったことに比べたら、全てがなんでもないことのように思えて、世の中の事は全部がそういうものなんだとまずは無条件に受けいれてしまう。
 僕の足は普通とは違うけど、僕にはこれが当たり前で僕自身なんだとずっと思いこんでいた。
 見えているものは自分次第で感じ方を変えられる。
 どんな場所であれ、最大限に楽しめばいい。不安になれば損をする。ほとんど哲の影響ではあるけど、実際困難な事を体験して、僕はそれを利用してやりたいと思う癖をつけた。
 だけど、折角栗原さんが肩車をリクエストしたのに、それを上手く出来なかったのはちょっと心残りだ。
 新しい義足にまだ慣れてないものがあって、足を曲げてしゃがんだ状態から重いものを持って立ち上がるのは少し難しい。栗原さんが重かったとか言ってるの ではないけど、高い位置に持ち上げられなかった事はちょっと男として傷つくものがあった。それも情けなくってついヘラヘラしてごまかしたけど、もう少しト レーニングして鍛えなければならない。
 夜道の暗闇で周りに誰もいない事をいいことに、僕はその場で少しジャンプして自分の足の状態を確かめた。慣れればそのうち、動きに違和感がなくなるはずだ。
 義足を着ける前、不思議と自分のなくなった足が痛くてたまらなかった。手で触れることもできないのに、頭の中ではそこに自分の足があるように思えて、そ れが悲鳴をあげているような痛さを感じた。かと思えば痒いと感じて、無意識に掻くのだけども、ただベッドのシーツを引っ張っていた。
 義足を付けたくない僕の体の抵抗だったのかもしれない。
 哲は、いつかコンピューターを駆使した自分の意思で自由に動かせる義足を作るから、その時は協力してくれなんて言ってきた。
 僕の失った足を無駄にはしないと、そこまでポジティブになることもないんだけど、哲もあれで、かなり僕を励まそうとしていた。
 義足に慣れるまでは哲が練習に付き合ってくれて、病院の廊下や階段でじゃんけんグリコして遊んだ。もちろん哲のアイデアだ。
 まだ自由に使いこなせなかった時は、沢山歩くのが嫌で、グーばかりだしていた。グリコなら三歩で済むからだ。それに気がついた哲はチョキばかり出すようになって、三歩であっても連続何回も続くとさすがに諦めてしまった。
 でもグーを出す回数が多く、それが今では癖になってしまっている。栗原さんとじゃんけんグリコをした時もついそうなってしまった。
 考え事をしながら歩いていると、住宅街の道路で後ろから来た車が軽くクラクションを鳴らした。僕は慌てて端に寄って立ち止まった。車を見送った後、夜空の星を仰ぎながら、別の世界線の事を考える。栗原さんは今頃どうしているのだろう。
 世界線が違って二度と会うことはないけど、その遠い世界に栗原さんがいると思うだけで励まされる。
 今見えている夜空の星々は栗原さんが見るものと同じものであってほしいと僕が願った時、流れ星がすっと線を描いていた。


 ◇栗原智世の時間軸

 私が存在する元の世界線。無事に戻ってこれた夜、福を側に置いて澤田君の事を考えながら眠りについた。
 澤田君との出会いから、誰もいなくなった商店街。見えない壁の存在。閉じ込められた恐怖。元の世界に戻るためにふたりで一緒に考えて、色々と試して次第に心が通っていったこと。それは楽しい出来事だったように、口元は微笑んでしまう。
 そうしてもう会えないと思ったとき涙で目じりが濡れた。
 寝返りを打てば、足元で丸くなっていた福がむくりと起き上がり、遠慮なく私の体を踏んで枕元にのそのそとやって来た。
「福ちゃんちょっと痛いよ」
 暫く枕の端を踏み踏みした後、私の隣で再び丸くなって落ち着く。
 目の前に横たわった福。私は顔を埋めて福の柔らかいもふもふの毛並みを荒っぽくスーハーしてしまう。福が「にゃーん」と頭をもたげて私に振り返った。止めてという意味だったのだろうか。心なしか目が睨んでいた。
「福ちゃん、つれないな。ちょっとぐらいいいじゃない。今日はさ、色々とあったんだよ」
 じーっと私を見つめてから、再び丸くなったので、その後は、そっと撫でてやった。今度は気に入ったのか、喉をゴロゴロ鳴らしだした。
 静寂な暗闇で聞くその低く振動する音はとても優しくて、私の心を慰めてくれる。
「福ちゃん、ありがとね」
 しばらく福を撫で、喉のゴロゴロを楽しんだ。
 その音を聞いているうちにすっと眠りに落ちていった。


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