第四章


 ◇澤田隼八の時間軸

 夜が更ければうとうととして、眠りについたけど、不意にはっとして目が覚める。何度もそれを繰り返しているうちに朝になっていた。
 起きて台所を覗けば、母がお湯を沸かしているところだった。
「あら、早いのね。隼八もコーヒー飲む?」
「うん」
 母は最近やつれている。未知のウイルスのせいで、仕事場のスケジュールが変更されて、色々と振り回されている様子だ。休みが多くなり、その分給料にも響いてくる。だけど僕の前では明るく振舞っていた。
 僕が事故に遭ってから、多少の困難があったとしても僕を失うことと比べたら何でもないと思うことで気持ちを奮い起こしていた。
 トイレを済ませてからダイニングテーブルについて欠伸をすると、ケトルから蒸気が噴出した。母は火を止め僕の目の前を横切る。
「オリンピックは正式に延期が決まったみたいだけど、学校はいつから始まるのかしら」
 母は戸棚からカップを出しながら訊いた。
「世間では延期ブームだけど、うちはいつも通りだと思うよ」
「ちゃんと気をつけるのよ」
「大丈夫だから心配しないで。それよりも、お母さんこそ、気をつけてよ」
「分かってるわ」
 母は心配ないと笑った。
 僕はこのとき、栗原さんのお母さんの事を想像した。この世界では栗原さんは事故で亡くなっている。大切な娘を失って悲しい思いでいることだろう。
 別の世界線では元気だと伝えてあげたいけど、言ったところで信じてもらえないだろうし、馬鹿げていると気を悪くするのが落ちだ。そっとしておくのがいい のかもしれない。きっと僕が想像できないくらいの悲しみに包まれているに違いない。僕ができることなんて何もないし、僕もまた会うのが怖かった。
 母がテーブルの上に湯気が立つコーヒーカップを置いた。
「今日は何か予定あるの?」
「うん、まあね」
「昨日みたいに遅くならないでよ」
「うん」と答えて僕はコーヒーカップを手に取る。それをフーフー息を吹いて冷ましながら、ぼんやりとした目ですすった。
 いつもなら砂糖とミルクを入れるけど、それなしで今朝は飲んでみたかった。
 やっぱり甘みが感じられないと苦味に舌を刺激されて飲みにくい。それでも僕はそれを無理して飲んでいた。
 いつもと違う僕だと母は不思議そうに見ていたけど、特に何も言ってこなかった。それよりも、「今日の夕飯は何がいい?」と笑顔で訊ねてくる。
 僕が何かで悩んでいても、美味しいものを作れば元気を出してくれると思っていた。僕が事故に遭った時もそうだった。母は一生懸命色んな料理を作ってくれた。それが母のいつもの気遣いだった。
「なんでもいいよ」
 僕がそっけなく答えても、母はきっと手の凝ったものを作るつもりだろう。冷蔵庫の中を確かめて、すでに献立を決めている様子だった。
 コーヒーを飲み終わり、朝の身支度を済ませながら、時計を気にしていた。僕はまたあの商店街に行くつもりでいる。
 そこに栗原さんが来ている気がして、もしかしたらまた空間の歪みが発生するかもしれないと思うと確かめずにはいられなかった。
 昨日と同じ時間帯を見計らって、僕は再び奇跡が起こる事を願いながら家を出た。
 今日は黒猫を見かけなかったけど、ドキドキして路地から商店街に入れば、まばらに人が歩いていた。
 向こう側に続く路地をじっと見ていると、隣の婦人服店から気難しそうなおじいさんがハタキをもって奥から現れた。僕の方を怪しげに見ながら、店頭に置いてるマネキンに向かってハタキをかけている。
 こんなところでじっと立っている僕を不審者だと思ったのかもしれない。お互い意識しているから、気まずさを感じて僕はおじいさんに近づいた。
「あの、この辺りに高校生の女の子を見かけませんでした?」
「あんた、彼女とここでデートの待ち合わせか」
「いえ、違う……」と否定しかけたけど、僕は言い直す。「はい、そうです」
「ふーん、こんな場所でね。こんなところで女の子がいたら、すぐに気がつくけど、この店を開けてから、そんな子は来なかったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 僕はお好み焼き屋の隣の路地に戻り、暫くそこで空間の歪みが発生しないか待っていた。
 向かいの店のお爺さんは僕の様子を時折り見ては、首を横に振って呆れている様子だった。
 でも僕はここから動きたくなかった。
 それでも僕の思うように事は起こらなかった。
 ただすぐそこに栗原さんも僕を探しているような気がして、ずっと向かい側の路地を見ていた。

 ◇栗原智世の時間軸

 昨日は諦めて帰っても、また朝を迎えると懲りずに商店街にやって来た。春休み中、毎日同じ時間にここで澤田君を待つつもりでいる。
「あんたまた来たんかね」
 婦人服店のお爺さんだ。その後も何か言いたそうにしていたけど、何も言わずに奥に入っていった。
 お爺さんに何か言われようと、学校が始まるまでは毎日通うつもりでいる。もしかしたらと思うとじっとしていられない。
 変化を期待して前方を注意深く見ていると、またお爺さんがやってきた。
「あんたさ、昨日も十一時前にはここにいたけど、その待ち人の男の子と連絡したらどうじゃい?」
「連絡先が分からなくて」
「でもここに来るかもしれないってことで、待ち伏せでもしてるのかい?」
 ストーカーとでも思ったかもしれない。でも説明もできなかったので「はい」とあっさり答えた。
「そっか、そんなに好きな子なんじゃな。まあしっかり頑張りなさい。ほれ」
 お爺さんは私に和紙で包装された《《四角い》》ものをふたつ差し出した。
「えっ?」
「遠慮しなくてもいい。隣の和菓子屋さんが、時々売れ残ったお菓子をくれるんじゃ。そのおすそ分けじゃ」
「あっ、ありがとうございます」
 私がそれらを手にすると、最中かお饅頭か、中に餡子が入っている様子でずっしりと重たく感じた。
「まあ、気の済むまで好きな人を追いかけたらいい」
 そう言ってまた奥へと引っ込んだ。
 あのお爺さん、見かけは気難しそうだけど心の優しい人かもしれない。
 手にしたふたつの四角い和菓子をじっと見つめる。お爺さんの心遣いにほんわかしながら、もしかしてと澤田君に会えるような気になっていた。その和菓子を持ちながら胸に抱いて澤田君に会いたいと強く願った。
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