第四章

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 ◇澤田隼八の時間軸

 初恋を桜の花のように例えたあと、僕はその桜が咲き誇る桜ヶ丘公園へ行きたくなった。そこは栗原さんと僕のデートする場所になるはずだった。
 栗原さんが何度も僕とデートしたいといってくれて、僕は素直にそれを喜んだ。僕が初恋の人に似てるなんていったもんだから、栗原さんも僕を意識してしまったところがあったと思う。
 僕はあのとき、栗原さんが本当の僕の初恋の人かもしれないという疑念が拭えなかったのと、いや、やっぱりそうじゃないと否定もして、あの状況の中とても困惑していた。
 実際は本人だったのだけど、それがわかったところで僕たちの存在する世界線が違うから、その初恋は自分の世界では成就させる事ができない。
 でも僕はあの空間で、全てを全力で受け止めた。そこで出来る限り僕たちは楽しんだし、そこは誰にも邪魔されない僕たちだけの世界だった。まるで僕の初恋のやり直しをするためにチャンスを与えられたようにも思えた。
 その空間も限りというものがあって、広がってから狭まっていく過程は時間制限を表わしていたのかもしれない。終わってから色々と思うけど、実際はどんな法則があったのかは知る由もない。それでも精一杯に僕は栗原さんと向き合えたと思う。
 ただ好きだと栗原さんにちゃんと言えなかったことが悔しいけど――。
 栗原さんも気持ちが高ぶったことが何度もあって、僕からの言葉を待っていたような気がした。でもその時、初恋の人に似てるからという動機で、栗原さんに押し付ける事は憚られたし、そのときになって僕はちっぽけな存在に思えて怖じけた。
 僕の初恋はあまりにも苦くて深く傷ついて泥のようにぬかるんでいた。その中に僕は右足を置き去りにしていたから、いざという時になって臆病になってい た。頭でこうすべきだと分かっていも、それを行動するには勇気がいると思う。最初の一歩から全力で攻めて、力強く飛び立つまで迷いがあった。
 ずっとなかったことにしていたけど、僕はあの事故と向き合おうと思う。
 僕は本当のところ、あの事故が怖くてたまらなかった。思い出すと、動悸がして倒れそうになっていた。失ってしまったものがあまりにも大きくて、それを認めたら憤って気が狂いそうだった。ずっと恨んで殻に閉じこもって何も出来なかったと思う。
 だから僕には栗原さんが必要で、栗原さんは生きているって思っていた。それが僕の唯一の生きがいだったから。
 でももう大丈夫だ。栗原さんは生きている。そして僕はまた彼女に恋をした。二度目の初恋は透き通るように美しく、全てが浄化されていった。

 始業式が終わった後、リミと少しだけ栗原さんの事を一緒に喋った。そこに鹿島が割り込んできたから、それ以上話せなくなって、でもリミと鹿島はなぜか意 気投合し、気晴らしにどこかへ行こうということになった。僕も少しだけ付き合ったけど、途中で抜けた。あのふたりが僕をきっかけで仲良くなるのなら僕はこ の世界で大事な役割を担ったんだと思う。
 僕は今、桜ヶ丘公園をゆっくりと歩いている。手には苺のショートケーキがふたつ入った小さな箱を持ち、桜の花びらが舞う中を栗原さんを思い浮かべている。
 小さい子供と母親が桜の木の下でボール遊びをしていた。その側で白い毛がもじゃっとした小型犬が舌を出してハッハしながら見ていた。まるで笑ってるみたいだ。
 僕の足元にボールが転がってきたので、それを手にして軽く投げ返した。
「どうも、すみません。ありがとうございます」
 母親が丁寧にお礼を言った。
 僕はどういたしましての変わりににこっと笑って頭を下げた。
 桜ヶ丘公園はなだらかな丘に渦巻きを描きながらてっぺんに続いている。もちろん桜もこの丘いっぱいに植えられて、この季節はピンク一色に染まって綺麗だ。今が丁度見ごろだ。
 ところどころでお花見をしている人たちもいる。今年はお花見を自粛してほしいといわれていたが、そんなの関係なしの人もいる。ほんの数組程度だから、密にはなっていない。こんないい天気に一番見ごろな桜を見ない方がもったいない。
 時々犬の散歩をしている人とすれ違う。僕の持っている箱が気になるのか、くんくんと匂いをかぎに来た。飼い主さんが「これっ」て叱ってたけど、僕は全然嫌じゃなかったから「いい犬ですね」と褒めた。自然と知らない人と話せるようになったと思う。
 丘の上のてっぺんに来た時、白い大型犬が桜の木に向かって吼えていた。飼い主の女性は「やめなさい。もう十分でしょ」と繰り返し言ってリードを引っ張っていた。だけど犬は吼える事をやめなかった。
 何かがいるのかなと僕も気になって近づいた。


 ◇栗原智世の時間軸

 沙耶子さんは残ったふたつのおにぎりをラップに包んで私にくれた。
「あのね、智世さん、おにぎりだけど、実はあれ、雑誌に紹介されていたの。だから私が考えたわけじゃないの」
 最後に恥ずかしそうに教えてくれた。
「でも、澤田君の好き嫌いを失くしたくて、一生懸命何を作ろうか悩んで、それで色んな料理雑誌を見たんだろうなって思います」
「ええ、そうだったわ」
 沙耶子さんは懐かしむように微笑んでいた。
「今日は突然お邪魔してすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ、来てくれてありがとう。そして隼八を好きになってくれてありがとう」
 沙耶子さんは私を抱きしめてくれた。
 ふんわりとしたやさしい匂いがする澤田君のお母さん。澤田君の優しさと被る。
 年が離れているけど、沙耶子さんとこれからも友達でいたいと思った。
「また遊びに来てもいいですか」
 厚かましくも私は尋ねた。
「もちろん大歓迎よ。また一緒に料理しましょうね」
「はい、ぜひ教えて下さい」
 澤田君が好きなものや、いつも食べてたものを私も作ってみたい。
 また会う約束をして、私は沙耶子さんと別れた。
 鞄に入ったおにぎり、澤田君の大好きな味。今それを手にしている事がとても嬉しい。
 空を見上げれば、今日はいい天気だ。桜ヶ丘の桜も見ごろに違いない。そこに行ってこのおにぎりをまた食べてみようか。
 本当なら私と澤田君がデートするはずだった場所だ。それが叶わなくなったけど、ひとりでも行かなくっちゃ。

 桜ヶ丘公園は優しいピンク色に包まれてお伽の国のようだ。風が吹くと桜がそよそよとなびいて、花びらが時々ふわっと舞っていく。
 優しい時間がゆっくりと流れて、桜の木の下で母親と小さな子供が犬に見守られながらボール遊びをしていた。子供も犬もかわいいなと見ていたとき、ボールが私の足元に転がってきた。
 それを拾って、子供に向かって転がした。
「どうもすみません。ありがとうございます」
 母親は丁寧にお礼を言った。
「どういたしまして。お子さんも、犬もかわいいですね」
 褒めると、お母さんは嬉しそうにはにかんでありがとうの意味で頭を下げていた。
 なだらかな坂をゆっくりと歩きながら、桜を堪能していた。途中、犬を散歩させている人たちと会い、人懐っこい犬が私を見て、遊んでほしそうに尻尾をふった。
 私はにこっと微笑み返してすれ違った。
 お花見している人たちも少なからずいる。もしかしたら週末は自粛と言われていてもそんなの無視してここにやってくるのかもしれない。
 ぐるぐると回りながら丘の上まで歩けば、結構な運動量だ。苦にならなかったのは、桜が綺麗で見ているのが楽しかったからだ。
 頂上が近づくと、上の方から犬の吼える声が聞こえる。てっぺんについてみれば白い犬が桜の木に向かって吼えていた。大型犬だから声が太い。飼い主の女性はリードを引っ張って、「やめなさい。もう十分でしょ」と何度も言っているけど犬は言う事を聞きそうにもない。
 何かがいるのだろうか。近づいて様子を探ってみた。
「こんにちは、そこに何かあるんですか」
 私が声を掛けると、女性は困った表情を向けた。
「何かを見つけたみたいに急に吠え出したんだけど、私が見ても何もなくてね」
「犬は繊細だから、細かい何か見つけたのかもしれませんね」
「私も注意深く何度と見たんだけど、やっぱり何もないのよ」
 散った桜の花びらが地面を多い、そこはピンクの絨毯になっていた。
「もういいでしょ。帰るよ」
 女性はリードを無理にひっぱり、犬をそこから引き離す。私に一礼をして、犬をひきずって丘を降りていった。
 犬は何回か振り返っていたけど、そのうち諦めて丘を下りて行った。
 ここに何か埋まっているのかなと落ちていた枝を拾って突いたとき、そこに散らばっていた桜の花が幾分消えたように見えた。
 風が吹いて飛んでいったのだろうと思っていたら、次に地面の土も小さくほじくったような穴が出来ていた。
「ええ、虫がいるの?」
 何かが明らかにここでうごめいている。どんな虫が出てくるのか暫く見ていた。


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