第一章


 『Dearケムヨちゃん、真理絵と留美ちゃんと私とで一緒にご飯食べよう。場所はいつもの居酒屋ね。仕事終わったらすぐに来て。待ってるから』
 音野夏生からのメールを受けて、車の後部座席に乗っていたケムヨはため息を一つ吐き、暫く携帯の画面を見つめるも断る理由が見つからない。
 『わかった』と簡素に返事を送信してから携帯をしまうと同時に運転手に声を発した。
「用事ができたのでこの先の駅前で降ろして下さい」
「はい、かしこまりました」
 サービスが行き届いてますといわんばかりのドライバーの従順な受け答えが爽やかに響く。
 車は言われたとおりに駅前でケムヨを下ろした。
 たまたまこの日の用事のためにかしこまったスーツを着ていたとは言え、自分らしくないその服装に窮屈さを覚える。皆でご飯を食べるだけだからと着ている物はあまり気にしないで駅に向かっていた。
 途中目に付いたコンビニに寄り、化粧落としのクレンジングと洗顔剤を購入する。
 その後は販売機で切符を手にして改札口を通り、そしてトイレへと向かった。
 鏡の前ではお化粧直しをしている人たちが多い中、ケムヨは先ほど購入したクレンジングで化粧を落とし、洗顔剤を使って最後はじゃばじゃばと顔を洗いすっぴんとなった。
 いつも持ち歩いているハンドタオルで顔を拭くとさっぱりしたとばかりに息が漏れる。
 後は唇の荒れ防止のためのリップクリームをつけた。
 髪をアップにしていた飾りのバレッタを外し、首を横に振ると背中まで届くストレートの長い髪がふわっとなびいた。
 イヤリングと腕時計も次々外し、最後は首に巻いていたスカーフも取り除きそれらをバッグに無造作に突っ込む。
 ついでに服もカジュアルなものに着替えたかった。
 化粧を落としただけでも少しは気が楽になったと、鏡に映るスーツを見つめて仕方がないと我慢を決め込んだ。
 お腹の中でキュルキュルと小さな水の疱がいくつも湧くように鳴っている。
 思わず「お腹すいた」と手で腹部を押さえて小さく呟いた。
 空腹には勝てないと、親友の夏生とパートで時々顔を合わす真理絵と留美との食事を少し楽しみにトイレを後にした。
 プラットホームに向かい電車を待つ。
 それはあくまでも食事をするということだったからケムヨはそこに向かっていた。

 居酒屋の店の前で夏生たちと顔を会わせると、とりあえず微笑み、周りの雰囲気に合わす。
 その後は夏生が店の人に予約を入れていると話して、ウエイトレスに店内にどうぞと手をさしのべられた。だが、なぜか集まった人数よりも多い椅子が用意されたテーブルに案内され、ケムヨは嫌な予感を感じだした。
 この時期、生ビールが美味しく感じる初夏の季節となった頃で、そういうお酒を扱うお店は会社帰りの人が喉の渇きを癒すためにと集まっていた。特に金曜日ということもあり、店内は混み合ってるだけに少人数がこのテーブルに通されるのはおかしい。
 人数に合わない大きなテーブルを前にして、夏生以外皆キョトンとしてどこに座ればいいか思案していると、夏生が恐る恐る様子を見るようにいい訳をいい始める。
「ごめんね、合コン設定するって言っておきながら、土壇場で予定変更になって女だけの集まりになっちゃって」
 その口調からは責任感も含み、急に都合がつかなくなって予定を変更したことを申し訳ないと謝っているように聞こえたが、実際はまだ何かありそうに恐々と三人に気を遣っている。
「気にしないで。こうやって夏生と一緒にまた会える機会ができて、私は嬉しいよ。新婚生活は楽しんでる? 今日は色々とのろけてくれてオッケーだからね」
 新井真理絵が全然気にしてないと夏生に気を遣っている。
 仕事を通じて知り合ったが、年も同じ28歳なこともあり、お互い呼び捨てにして仲がよかった。
「そうですよ、先輩。お会いできただけでも私は嬉しいです。会社を結婚退職されてから、寂しかったです。私も新婚生活の話が聞きたいです」
 人懐っこいほんわかした笑顔で横峰留美は答えていた。程よく甘えるのが上手で夏生からは特にかわいがられていた。
「そう言って貰えると嬉しい」
 夏生は言葉に甘えてついのろけてしまいそうだったが、独身三人の前ではにっこりと笑うだけでそれを抑える。
「遠慮しなくていいんですからね。色々と話して下さいよ、先輩」
「そうだよ、私達がいくら独身だからっていっても気を遣うことないから。夏生が幸せだと私達も元気がでるよね」
 真理絵が留美と顔を合わせてにっこりとしていた。
 夏生は面倒見もよく、気配りが行き届いていて人に頼られて好かれるタイプであった。
 真理絵も留美も夏生の良さをわかっており、夏生もまた二人とはいつも何があっても裏表ない付き合いが心地よく、夏生にとって一緒にいてほっとする友達だった。
 だからこの二人にも早く幸せになって欲しいと、この二人に直接頼まれた訳ではないが優香がしつこく頼んできたことをきっかけに合コンのセッティングを請合ったと言う訳だった。
 そしてもう一人、特に幸せになって欲しい人物がいる。
 夏生はケムヨに視線を向けると優しく微笑んだ。
「ケムヨちゃん、来てくれてありがとうね。あなたには是非とも来て欲しかった」
「ほんと、ケムヨが居酒屋に来るのは久し振りだよね」
 真理絵も付け加える。
「そうですよね。ケムヨさん、人前に出るのあまり好きそうじゃないですもんね」
 留美も視線を向けた。
 ケムヨは戸惑った目を向けて三人を見回して呟いた。
「もしこれが合コンだったら私来なかった……」
 仲のいい女子達だけで食事をすると思ったから承諾した訳であった。だが椅子の数が異常に多くてケムヨは夏生を訝しく見つめる。
 夏生は目を泳がすように逸らしてどこかしらばっくれていた。
 しかしこれ以上、隠しても仕方がないと正直にこれから何が始まるか口を割った。
「そうなのよ、ケムヨちゃんは合コンだと来ないって分かってたから、だから嘘ついちゃった」
「えっ? 嘘ついたってどういうこと」
 ケムヨが驚き、鋭い目つきを夏生に投げかける。
「実は、これから夫が友達をつれてここへ来るの」
 ケムヨはもちろんだが、真理絵も留美も話が見えないと言葉なく夏生を見つめるだけだった。
inserted by FC2 system