第一章 


「ねぇ、帰ってもいい?」
 ケムヨが目を潤わせて夏生に懇願する。
 騙してケムヨを呼んだだけに夏生は良心の呵責に苛まれたが、真理絵がカバーするように口を挟んだ。
「ケムヨ、もう覚悟決めたら。とにかく食事するだけでいいじゃない。夏生の旦那さんにも私達の名前伝えちゃったし、今帰るのは失礼だよ」
「ケムヨちゃん、騙したのは悪いと思ってるけど、お願い、今日は私の顔を立てると思って」
 夏生は両手を合わせて拝みこんだ。
「なんで夏生の顔を立てるのよ?」
 ケムヨが背筋を伸ばし上から訝しげに視線を投げかける。
「あのさ、実は夫が連れてくる方にも一人変わった知人がいるらしく、年収や職業で寄って来る女性を毛嫌いしているらしいのよ。そこでそんな女性は絶対に来ないってうちの夫が言い切っちゃってるから、ケムヨちゃんには是非ここに居てもらわないと困るの」
「ケムヨはそれ以前に男嫌いじゃん」
「真理絵先輩、それって、逆を言えばケムヨさんはこの件に関しては適任ってことになりますよ。全然何にも興味を示さない」
「もちろん、真理絵も留美ちゃんも常識のある人たちだから、今回はこの三人の中から誰一人欠けてもいやなの」
 夏生は付け足した。
 ケムヨは眉間に皺を寄せて考え込み、諦めて一番端の席にどさっと着いた。
「今日だけだからね」
 夏生の頼みとあればケムヨは断り辛い。
 夏生とケムヨの関係も二人にしかわからない何かがありそうだった。

 夏生の旦那が知人を連れて来るまでケムヨ以外の三人は好き勝手に話をしていた。
 お水を持ってきただけで、まだ注文を聞きに来ないのは、この席が予約席であって、予め人数が集まるまで関与されない段取りだった。
 自分達よりも数の多い椅子が並んでまさかとは思ったが、ケムヨはメールを貰って断らなかった自分が一番悪いとこの件についてはすっかり諦める。
 気持ちを落ち着かせるために、グラスを手に取り水をぐっと飲み干す。
 我慢できないならこの場から去ることも可能だが、夏生に頭を下げられると普段自分勝手に行動しているケムヨなのに我を貫き通せなくなる。
 夏生には弱みを握られているというのか、世話になっているというのか、いろんな意味で逆らえない立場なところがあった。
 ケムヨが知られたくないと思う事柄を唯一知っている人間だった。そして常に力になってくれる。
 一番信頼できる人であり、そこにお互いの家族を含んでの付き合いもあるので、姉妹といってもおかしくないかもしれなかった。
 夏生はケムヨの只の友達という訳にはいかない間柄といっていい。
 ここは夏生に従わなければならないと半ば自分自身説得するようにケムヨは覚悟を決めた。
 暫くして夏生の目が見開き、入り口の方を見て大きく手を振りだした。
 その先には新婚らしく幸せな笑みを妻に向けている音野豪(おとのごう)の姿があった。
 優しい気配りの夏生にふさわしく、夫の豪もそれに負けない人当たりのよさそうな優しさがにじみ出ている。
 そんなにハンサムではないが、笑うと益々細くなる垂れ目がとても可愛く見えた。
 その後ろに三人の男達が続いている。
 一人は少しふくよかだが、背筋がピンと張り、貫禄が漂っていた。名前は澤田義和。眼鏡を掛けてインテリな雰囲気が漂うところは、豪と同じ医者に見える。
 その後ろには少し細めだが長身の麻黒い肌の男が続いていた。どこか彫りの深い日本人離れしたような風貌。多少軽っぽくも見えたが、笑うと愛嬌がある。
 ノートパソコンの入る鞄を手にしてやってきたところを見ると、コンピューター会社を経営している楠井貴史だった。
 最後に一番背が高くがっしりとした体躯、かっこいいがふてぶてしそうな冷めた目つきをして篠沢将之が入って来た。
 メンバーがこれで揃い、夏生が主催者らしく指揮を取る。
 そして一人一人軽く挨拶をする。
 その時将之は誰が変わった女だろうかと、目を細めて見極めようとしていた。
 そして一人俯き加減で化粧っけもなく暗い雰囲気に包まれた愛想がない女に気がつく。
 こいつに違いないと将之はケムヨにレンズを覗き込んでピントを合わせるような真剣な目つきで視線を固定した。
 席に着くとき、将之はケムヨの前に座った。そして口元に笑みを浮かべ爽やかな青年を装いケムヨに熱い視線を送る。
 ゲームの始まりを意味していた。
 そうただのゲームのつもりだったのだ。
 だが将之はこのとき思ってもない事態への扉を開けてしまった。
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