第十章 嫌な問題は色んなところで飛び交っていた
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週明けの月曜日。
この日はパートの仕事ではなく、ケムヨは本業の仕事に出かけていた。
重圧な男達の集団に囲まれ、難しい話に耳を傾けるがその重々しい空気が酸素を奪っていくように息苦しい。
だが、いつかは自分はこの男達の上に立つ身分となり、纏めていかなければならない日がやってくる。
気を抜くわけには行かない。
しかし、かつての恋人だった翔がまた目の前に現れ、そこに将之も絡んでいるためにケムヨの気が珍しく乱れていた。
ついぼーっとしていたとき雷が落ちたように名前を呼ばれた。
「笑美子! どうした。大事な話をしているというのにたるんでるぞ」
冷たい目で祖父の幸造が刺すように視線を向けている。
そこに加わわって周りの男達の全ての目つきも肌をピリピリとさせ、ケムヨは動揺して瞳が揺れていた。
「す、すみません」
周りの男達も、ケムヨが女だから、または幸造の孫だからと言って容赦しない。いくら将来の跡取りと分かっていても、幸造が甘やかすなと命令をしている限り、その中ではまだ誰よりも身分が低かった。
ケムヨも生半可な気持ちでその場所に参加しているつもりはなかったが、私情を挟んで失態を見せてしまったことを悔やんでいた。
暫し沈黙が続いてしまう。
体に力を入れ、少し震えるケムヨを救ったのは、やはり幸造自身だった。
「昼も近い、少し早いが休憩としよう」
幸造の一言で、男達はその場を次々に後にし、その部屋に残されたのは幸造とケムヨだけになった。
「先ほどは申し訳ございませんでした」
ケムヨは目の前に居るのが祖父であっても、この組織の中にいるときはきっちりと分けている。
「この世界で生きていくには、お前は女でもわしの孫でもないことは分かってるはずだ。いつ誰がお前の背後から潰しにかかるかもしれやしない。油断はするなといつも言っているだろう」
「はい、分かっております」
とは言っても、ケムヨは否が応でさせられているんだという気持ちは抜けなかった。
しかし、それでもやると決意したのも事実だけに、ケムヨはぐっと歯を食いしばった。
「まあいい、周りで何かゴタゴタが起こっているんだろう。さっさと落とし前つけてこい」
「えっ、そ、それは」
「隠さなくてもある程度のことは分かっておる。色んなところで情報網を張ってるからな」
思わずケムヨは良く動くシズの口を想像していた。
まだ首が垂れ、落ち込んでいるケムヨを今度は祖父として幸造は見つめた。
「笑美子、過酷なことに巻き込んでしまったとは思っておる。だが、わしの跡を継げるのはお前しかおらんのじゃ。お前は喜美子によく似てしっかりした女だ。喜美子の血を受け継ぐだけに肝がすわっとると思うぞ」
喜美子とは幸造の妻であり、ケムヨの祖母のことだった。
喜美子の名前を呟くとき幸造の顔は一瞬緩む。それくらい幸造は喜美子を愛していたと言わんばかりだった。
ケムヨの顔を見つめながら幸造はどこかで喜美子を思い描いている様子に、ケムヨは少し目を伏せた。
それを悟るように幸造は話題を変えた。
「ところで、ホテルボーイの松岡君のことを振ったそうだが、もったいないのう。あれだけ適任した素材は滅多にいるもんじゃない。バックグラウンドも魅力的じゃ。もう一度考え直さないか」
「ちょっとおじいちゃん! 勝手に結婚相手決めないでよ」
そのことになると孫VS祖父の構図となり、対等に議論する体制となる。
「何を言ってる。わしが動かなければお前は結婚しようとしないじゃないか。それともいい男がすでにいるとでもいうのか?」
含み笑いを見せたところ見ると、事情をよく知っていると推測できた。
すでにシズが報告しているのだろう。
幸造はまるでボールを真正面に投げかけ、ケムヨがそれをどう取るのか楽しんで見ているようだった。
「いえ、そのようなことはございません」
「最近あの家に誰か来るようになったと聞いたぞ」
ケムヨは黙り込む。
これに関してはケムヨは一切話すつもりはなかった。
変なことを話して、万が一将之や翔に何か迷惑が掛かってはいけないと咄嗟に予防線を張った。
だが、今更話したところでこの調子ではシズが報告して全てを知った上で絡んできているのではと思うと、何を隠したところで無駄なような気もしてきた。
それでもささやかな抵抗として、黙り込んで保守に走るしかなかった。
「まあ、どっちでもいいわい。しかし、その頑固さも喜美子によく似ておるわ。そういえばもうすぐ喜美子の命日じゃ。その日はいつものようにわしもそっちに帰るからな」
結局は独り言を言うように一人で話の流れを作っていた。
幸造は立ち上がり側に置いてあった杖を手にして歩き出した。
トップに立つだけ威厳に満ちたオーラが漂うが、年には勝てないのか少し足取りがおぼつかない。
ケムヨは側に寄り、幸造を支える。
「本当なら一人で大丈夫じゃと言いたいところだが、このところなんとなく喜美子が迎えに来てくれるんじゃないかと思うようになっての。わしもめっきり年を取ったもんじゃ」
「まだまだ大丈夫でしょ。そうじゃないと私がすぐに跡を継ぐことになってしまうじゃないの。まだ私には無理よ」
ケムヨには本心だったが、幸造は自分を元気付けようとわざと弱音を吐いているように受け取っていた。
「その時が来たら、なるようになるじゃろ」
「ねぇ、おじいちゃん。やっぱりお父さんに帰ってきてもらうことはできないの?」
「幸助か。あいつこの間帰ってきたんじゃないのか」
「えっ? お父さんが帰ってきたの? いつ?」
「笑美子には会わずにまたフランスに戻ったのか? 幸助もやっぱり喜美子の血を受け継いで頑固じゃのう」
「ちょ、ちょっと、一体どうなってるの? お母さんも帰ってきてたの?」
「百合子さんは知らんが、幸助は用事で戻ってきてたみたいだけど、わしにワインを何本か置いていきおった」
「おじいちゃん、お父さんに会ったの?」
「会ったというのか、土産を置いて、屋敷から出て行く後姿だけ見たっていうとこじゃのう」
「なんで私に会いに来ないのよ。娘に会いたくないの?」
「幸助もそれなりに色々考えてるんじゃないのか」
「それじゃなんのために日本に帰ってきたのよ」
ケムヨは段々腹が立ってきてしまう。
「今はとにかくまだ会える時期じゃなかったってところだろう。笑美子のその顔を見てたら、そりゃ幸助は怖気ついたってところじゃな」
「お父さんがしっかりしてないから、私がこんなに苦労してるっていうのに」
ケムヨはとうとう怒ってしまった。
「しっかりしてない。まさにその言葉は幸助が気にするところじゃ。娘からも言われるんじゃ身も蓋もないのう。だからああするしかなかったんだろう」
「それが逃げた理由ってことなの?」
「さあな、それは本人に聞いてみることじゃ」
怒りに支配されたケムヨをその場に置いて、幸造はドアに向かって進んでいく。ドアノブに手をかけたとき幸造は思い出したように振り返った。
「そうだ笑美子、そろそろ本格的にこっちの仕事をしてくれないか。跡を引き継ぐにもいきなりは無理じゃからわしの側に常に居て欲しい。その時は皆にお前が正式な跡取りだと紹介するつもりじゃ」
その言葉でケムヨの熱は一気に冷めていく。
正式な跡取り──。
紹介即ち、全ての人の前に顔を出すことになる。そして自分の本名をさらけ出す日。
ケムヨは冷めるどころか冷えすぎて急に震えに襲われた。