第十章

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「君は誰だ? 今立て込んでいる話をしているんだが、席を外してくれないか」
 吉永が言うと、翔は訝しげになった。
「私の部下に何の話をしているんでしょうか。上司として把握したいのですが」
「君が上司? 見かけない顔だが君の部署と役職は何だ?」
「販売管理課の課長補佐ですが」
 吉永は自分より低い役職だと知ると上から目線となった。
「いやね、君の部下が失態をしたので注意していたところだ。この人は平気で嘘をついてはそれを会社に広めていたんだよ。パートだから鬱憤が溜まっていたんだろう。君からも強く注意をしてくれないか。このままでは首になってもおかしくないくらいだ」
「お言葉ですが、私の部下は嘘は言いません。何かの間違いではないでしょうか。どんな噂か存じませんが、なぜその噂が彼女からだといいきれるのでしょうか? 何か証拠でもあるのでしょうか?」
「それは」
 吉永は言葉に詰まった。ケムヨが言い付けたと確信できるのは浮気現場を見られて全てを把握しているからだった。
 そんなこと言ってしまえば、噂どころじゃなく自分が不利になる。
「勝手な想像だけで濡れ衣を着せないで下さい。それに、こんなことをすればあなたが不利になりますよ」
 翔は皮肉っぽく笑みを浮かべる。
 こんな青二才の若造にやり込められて吉永は益々腸が煮えくり返る。
「もういい! とにかく今回は見逃してやる。しかしこれ以上事が酷くなれば容赦はしないから」
 捨て台詞のようにケムヨに浴びせ、吉永は部屋から去っていった。
 ケムヨは俯き加減でぐっと握りこぶしを作り、ひたすら我慢して感情を必死に押さえ込んでいた。
「ケムヨ、何があったか知らないが、終わったぞ」
 翔が声を掛けるとケムヨは息を荒く吐きながら顔を上げた。
「どうして翔がここに居るのよ」
「おいおい、落ち着け。たまたまケムヨがこの部屋へあの男と入るのを見かけて、一体何してるんだろうと思ってさ。なんだか変なことに巻き込まれてるみたいだな。大丈夫か?」
 翔は心配して優しい眼差しで覗き込む。
「もちろん大丈夫。あんなことに負けないから。でもいいところに来てくれてありがとう」
 お礼だけは素直に言えた。
「まあ、今は上司だからな。これくらいどうってことないさ。だけどあの人はどうやらケムヨのことを何も知らないみたいだな。ケムヨのことを知っていたらこんなことできる立場じゃないのに」
「昔の私の立場だったらそうかもしれなかった。でも今はパートだから仕方がない」
「それでも、無知って怖いもんだな」
 翔は吉永を哀れんでバカにするように笑っていた。
「もういいわ。あんなのいつか天罰が下るときが来ると思う。ちゃんと誰かはしっかりと見ているものよ」
 ケムヨは落ち着きを取り戻し、少し笑みを浮かべると、翔も釣られて笑っていた。
 その一瞬、昔と変わらない時間がまた蘇った気になった。
 ケムヨははっとして、一歩下がったように翔に接する。
「色々とご迷惑かけて申し訳ございませんでした。準備があるのでこれで失礼します」
 またよそよそしい態度に翔は悲しくなるが、それでもこういうことの積み重ねがいつかは役に立つと前向きに捉える。
「それじゃ、後ほど。また今日も宜しく。二人で成績あげようぜ」
 あくまでも自然に接してくる翔にケムヨはどうしても戸惑いを隠せなかった。
 もしかしたら、上手く行っていたあの時から、何も変わらず続いているのではという錯覚まで起こってしまった。

 朝、翔に助けてもらってからというもの、借りを作ってしまったようでケムヨはなんだか落ち着かない。
 前日はあれほどしつこく私情を絡ませてきたのに、一夜置いてすっかりそれが抜けていたのも不思議だった。
 ケムヨのほうが気になってチラチラと翔の様子を伺ってしまった。
 そうなると私情を挟んでいるのは自分の方だった。
 ちょうど優香と目が合って、冷たい視線をつきつけられたことで、優香に私情を挟んでいる様子を見られているような気になった。
 その優香は相変わらずケムヨに敵意を示した態度だが、仕事だけはきっちりとしているようだった。
 時折目が合うとプイッとされるのは彼女のささやかな嫌がらせということなのだろうか。
 嫌がらせ。
 この言葉で、これまで自分の身に起こったトラブルを思い出す。
 やはり事の発端は優香が原因だったのだろうか。
 合コンに行きそびれ、男に相手にされない暗いケムヨが参加して、そこで将之と知り合ったことを知って妬んでいるのがきっかけだったのだろうか。
 しかし、ふと疑問が湧き起こった。そうだったらなぜあの時上機嫌で優香から合コンに誘われたのだろう。
 嫌がらせをされた後に優香は合コンの話をケムヨに持ってきた。
 妬んでいる人間がそんな事するだろうか。それともあれはお芝居だったのだろうか。
 優香の不可解な行動は一体何を意味しているのだろう。
 あの時のことをもう一度ケムヨは頭に浮かべてみた。
 合コンの誘いを断ると優香は将之と上手くいってると決め付けて、その後は自分も頑張ろうと前向きだった。
 あの時点では妬みなど微塵も感じられなかった。
 非常に起伏の激しい性格なのは分かっているが、あそこまでがらりと変わると人格が入れ替わっているのではと思えてくる。
 だけどもし、優香が嫌がらせをしてないのなら、あの行動も別に不思議ではない。
 そうしたら他の誰かがケムヨや優香に嫌がらせをしていることにならないだろうか。
 これは他に第三者が居て、次々と問題を引き起こしている事件だとしたら。
 しかもそれは意外な人物で全く疑われることのないような人物だったら。
 その時、ポンと肩を叩かれた。
 びくっと跳ね上がってケムヨは振り返った
「あっ、留美ちゃん」
「どうしたんですか? ぼーっとして」
「えっ、ちょっと考え事しちゃって。留美ちゃんなんか用?」
「今日ランチ一緒に行きませんか? 少し相談したい事があって」
 ケムヨは快く承諾したが、今度は一体何が飛び出すのかなんだかドキドキしていた。
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