第十章
5
会社のビルを出てどこに行くか方向を定めようとしていたときだった。
ケムヨと優香だけになるはずが「俺も一緒にいいかな」と後ろから低い声がした。
振り返ると、そこには翔がニカッと悪戯っぽく笑って立っていた。
優香は喜んで「はい!」と間髪居れずに答えていたが、ケムヨはびっくりして声も出せなかった。
「この辺の店もすっかり変わったな。どこが美味しい店なのかな」
翔はすっかり溶け込んでケムヨの気持ちなどお構い無しに接している。
優香は見るからに、翔に狙いをつけたような態度でいい女を演じている。
この二人を見ているとケムヨの対処できる許容範囲が大幅に超えていた。
仕方なく、三人でランチを取ることになった。
どこもこの時間は混んでいるが、唯一オープンカフェが座りやすく汗ばむ陽気の中、外に置いてあったテーブルが比較的空いていた。
各々好きなものを買って丸テーブルについたが、翔が入り込んでしまうと当初予定していた話ができない。
ケムヨがアイスカフェを持ち上げてストローですすったとき、優香ははっきり問題を提起した。
「それで、ケムヨさんは勝元さんとどういうご関係なんですか」
ケムヨは思わず咳き込む。
本人を目の前に単刀直入で訊けるとは優香の神経を疑う。
ケムヨが空気読んでくれよという目を優香に向けたが、優香の瞳はランランと輝いて早く話してくれとせかしていた。
「おいおい、なんだ、俺のこと話すつもりで二人は外でランチだったのか」
翔は鼻で笑うようにコーヒーカップを手にして口をつける。
本人が居なければケムヨは正直に元恋人だったと言うつもりだったが、この状況では口が固まってスムーズに言葉が出てこない。
翔はある程度ケムヨの出方を見ていたが、何も言わないので自ら答えだした。
「ケムヨと俺は元恋人同士だったが、野々山さんが知りたいのはそれなのか?」
はっきりと言ってしまう翔にケムヨは少しうろたえたが、真実なので言い直す必要はなかった。
だが、本人を目の前にこの話をするのは正直辛い。
目の前の料理を口にして、もぐもぐ食べることでケムヨの喋りたくない心理が表面に現れた。
翔は落ち着いた態度で、またコーヒーをすする。
「本当なんですか? だけど今は別れて関係ないってことですよね」
その点をはっきりしようと優香は強調する。
「そ、その通りよ……」
そこだけはケムヨもなんとか言えたが、突然カチャリと陶器がぶつかった音が乱暴に響いた。
翔が持っていたコーヒーカップをソーサに置いただけだったが、その音は納得してないという不満がもろに出ていた。
優香はすぐに察する。
「あの、そんなお二人が仕事をまた一緒にして大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。ケムヨは仕事には私情を全く挟まないシビアな奴だから。仕事とプライベートは別。それにこれは社長命令でもある。かつてのケムヨの働き振りを知っている者は納得するだろう」
「あの、ケムヨさんって以前何をしてたんですか?」
「ケムヨは経営では欠かせない位置のまとめ役だった。大雑把に言えばそれぞれの部署から出た事柄を全て把握して会社の経営方針を決めていくブレーン的存在
だ。よほどの判断力、そして頭が切れないとできない仕事をしていた。だけどどうして今は雑用係のようなパート扱いになってるんだ?」
それは誰のせいでこんな風になったと思ってるんだと、ケムヨは喉からでかかる言葉を飲み込むようにアイスコーヒーを勢いよくすすった。
それを聞いていた優香は顔を曇らせてしまう。
自分の方がケムヨよりは上だと思っていた優香のプライドが傷つけられた。
「そんなこと黙ってるなんてケムヨさんってなんかずるい」
到底敵わないものを見てしまい、優香は悔しさからつい本音が口から出てしまう。
だがその言葉は確実にケムヨの胸に突き刺さった。
自分は本当にずるい。
本名も自分の身の上の事情も全て隠している。
それはケムヨも常に自分を責めるに値することだった。
「ずるくはないと思う。別に言う必要もないし、ケムヨはどんな仕事にしろしっかりとやってるんだから堂々としていればいい。それよりも、全然会社の役に立たなかったり、文句ばっかり言って仕事をしない奴の方がずるいんじゃないだろうか」
さらりと翔は庇うように言うと優香は黙り込んでしまった。二人の間には自分の入り込めるような隙間も、資格もないことが分かってしまい顔を強張らせていた。
その後は白けたムードに包まれてしまったが、お陰でさっさと切り上げられて会社に戻ることができた。
結局はこの日、優香に聞きたかったことも聞けず、避けたい翔とも避けられずケムヨは悶悶としながら働いた。
そして優香はどうしても自分の感情に流され、露骨にケムヨに対して無視をする。
不遜な態度は周りの者の目にも映った。
本人は否定し続けているが、優香は重要書類を破棄したことを皆に疑われているだけに、周りの優香を見る目つきが違っていた。
やましいことはないと本人は堂々としているつもりだったが、部署内では優香が犯人だと勝手に決め付けられ、前回のケムヨの失敗も優香がなすりつけたのではないかという噂まで確定されようとしていた。
起伏の激しさが、優香を不利にしてしまっていた。
しかし優香の物怖じしない、怖いもの知らずの態度は、白か黒か判断するには危険すぎる。
はっきりした証拠もないため、憶測で考えたらどちらにも取れてしまう可能性があるだけに、ケムヨも優香への接し方に困っていた。