第十章
8
将之が去った後、ケムヨの家の前に今度は翔が立ち竦む。
何も考えずにやってきたものの、やはり面と向かって堂々と、またケムヨの前に押しかけるのは躊躇する。
自分でもどうしようもないと悔しさだけが募り、人生最大の失敗だと屈辱を感じて仕方がない。
入り込む余地はあると信じても、具体的な対策が練られない以上、下手にしつこくしても逆効果になる。
将之に終わったなどと言い切られ、痛いところを突かれると不安だけが膨らんで、自分らしからぬ戸惑いに翔は頭を抱えていた。
仕方なく尻尾を巻いた犬のように帰ろうとすると、この辺に住んでいるおじいさんが歩いてきて「こんばんは」と親しげに声を掛けられた。
翔は慌てて会釈を返したが、おじいさんにまじまじと見られた。
「あんた、前にここのお嬢と歩いていた人だろ。やっぱりお嬢のいい人だったのか」
暗かったせいもあり、体格も良く似ていたためにどうやら将之と間違えている様子だった。
「いえ、俺はその」
将之と間違えられて不愉快極まりない。しかし、この場は事を荒立てないように煙にまいて帰ろうと一歩足を進めたがおじいさんは人懐こく話し続ける。
「だけど、問題はお嬢のじいさんだな。あの人の前に出るには相当の覚悟を持っていかないとだめだぞ。そりゃ怖い人だからな。喜美子さんが生きていた頃はま
だまっしだったんじゃが…… そういえばそろそろ喜美子さんの命日か。じいさんもその時はここへ戻ってくるんだろうな。毎年戻ってきてるからな」
おじいさんは一人で好き勝手に喋っていたが、翔はこの上ない情報に興味を持った。
喜美子というのがケムヨの祖母であることを知り、以前ケムヨの祖父母がここで暮らしていた話を聞かされた。
ついでに命日の日まで聞きだした。
ケムヨの祖父がここへ来るのなら、その時がチャンスかもしれない。
翔はすでにケムヨの祖父がどういう人物か知っている。そして自分がケムヨにふさわしいことを認めてもらい、それが自分を売り込むチャンスだと捉えた。
さらに翔はケムヨのバックグラウンドを恐れず、それどころか手に入れることを切望していた。
翔はおじいさんに丁寧に挨拶をしてケムヨの家の前を後にした。
外堀を固めれば有利に動くかもしれない。こういう事は翔の得意とすることだった。
そう思うと自信を取り戻し背筋が自然に伸びていた。
一方将之は、家に戻ってからも翔と出くわしてしまったことで動揺していた。
男の目から見ても、翔は野心に溢れて修羅場をくぐってきた戦士としての男らしさが出ている。見たまま通りに頼もしさが伺えた。
大人びた男臭さが魅力となって、子供っぽい自分に比べて敵わないと思ってしまう。
将之も一般的に見れば引けを取らない精悍な風貌だが、それが演じて作り上げたただのフリという事を将之は分かっていた。
本当は崩れやすい不安定なものを持ち、強いフリをすることで自分を奮い起こしている。
力ずくでやり合えば容易に負けが見えていた。
ケムヨには翔の方がふさわしいと悔しいながらも思えてくるから、情けなさで泣きたくなってくる。
さらにケムヨのバックグラウンドのことを考えると本当は逃げ出してしまいたい。
だが、もう後戻りできないほどケムヨを好きになってしまい、いざとなればケムヨを連れて逃げる覚悟までできていた。
将之がこの時すべきことは、ケムヨの気持ちを自分に惹き付けることだった。
その準備を兄の修二にも手伝って貰いながら着々と進めている。
「これが上手く行けばきっとケムヨは俺の方を振り向いてくれる」
将之は翔と会ったことで抱いた不安を取り除くように体を奮い起こし、そして目の前にあるものを手にとって作業しだした。
ケムヨのことだけを考えて将之は一心不乱となった。
さて、肝心のケムヨだがデスクの前に座って真っ白いページのスケッチブックを見つめていた。
現実を忘れようとオタク心のスイッチを入れて絵でも描こうと思ったが、スケッチブックはいつまでも白いままだった。
翌日、翔と顔をまた合わせてしまう事が怖くなってくる。
そう思うのは翔が心に入り込んできて、情に流されてしまうのではと恐れているからだった。
あの時は本当に好きで心底惚れ込んだ人だった。
その人がまた目の前に現れれば動揺せずにはいられない。
浮気さえなければ、ケムヨは今頃翔と結婚していたんじゃないかと思えるくらいだった。
だが、その浮気がどうしても自分の中で消化しきれない。
翔が謝れば謝るほどとても辛くなってくる。
思わず、持っていた鉛筆が無意味に力強く螺旋を描いて狂ったようにページを塗りつぶしていた。
「やめた、やめた」
ページを破り取り、丸めてゴミ箱に投げた。
ため息をついて袋からコンペイトウを一粒取り出して口に放り込む。
舐めているとイガイガが口の中でいい刺激になった。
『一粒食べることに俺のことを考えてしまうのさ』
将之の言葉が蘇る。
「はいはい、考えてしまいましたよ」
呆れっぽく将之節に合わすようにそのように言ったが、翔のことを忘れたいから将之のことを考えたわけではなかった。
翔も将之もケムヨの中で渦を巻いている。
そこに仕事の事が加わり、ケムヨは益々ややこしく感じ、いつのまにか頭を掻き毟っていた。
今に何かが起こりそうで胸騒ぎを覚え、自分でも良く分かっていないものが苦しめる。
「一体私はどうしたいんだ」
できることなら何もかも捨てて逃げ出したかった。