第十一章
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「ケムヨさん、なんだか疲れていそうだけど大丈夫?」
心配して声を掛けてくれたのは園田睦子だった。
しかし疲れているとこの日言われたのはこれで何回目だろう。
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
給湯室の一件で頭ごなしに疑ったことをまだ負い目に感じているのか、園田睦子はケムヨに気を遣っている。
もちろんあの一件はケムヨとは全く関係がないことだが、ケムヨの疑いが晴れた分、容疑は優香に掛かっている。
だから園田睦子から声を掛けられても、まだ何も解決していないのですっきりしなかった。
「勝元さんの仕事、全部私が受け継いでもいいけど。本来のケムヨさんの仕事じゃないし、こういうのはやっぱり社員がした方がいいと思うの」
願ってもないオファーだった。もちろん園田睦子の言葉通りにしたい。
だが翔が納得いかないのが目に見えている。
「私もそう思うんですけど、勝元課長補佐が決めることですので私には勝手に決められません」
別に園田睦子の提案を無下に扱ったわけではない。
翔が何を考えてるか分かるだけにそう言っただけだった。
園田睦子は少し害したように顔を強張らせたが、最後は「そうね」と小さく漏らしていた。
ケムヨは頭の中でごちゃごちゃしているが、やるべきことをやるだけだと心得る。
色々と慌しく動き回っていると、不意に廊下で吉永と出会ってしまい気分がそがれた。
朝は腸が煮えくり返るほど殴ってやりたくなったが、暴力的な気分は多少落ち着いていた。だが、顔を合わすだけで吐き気を催しそうになっていた。
会社がこんなにも嫌な障害物だらけだったとは、なんとも生き難いと感じてしまった。
こんなときはお酒でも飲んで憂さ晴らしをしたい。
こういうときだけ将之の事を考えてしまう。気軽に本音で飲めるのはアイツだけだった。
終業時間になって、この日は定時で上がれそうだった。翔は何も言ってこない。
それをいいことに帰る準備を始めた頃、ケムヨ宛に内線が掛かってきた。
誰だとドキリとしたが電話の主はタケルからだった。
「姐御、これから飲みに行きませんか?」
朝交わした会話の続きでも急にしたくなったのだろう。願ってもない誘いにケムヨはあっさり承諾した。タケルも飲み仲間としては充分資格がある。
「お先に失礼します」と頭を下げてケムヨはオフィスを去ろうとすると、翔と目が合った。
何か言われる前にさっさと切り上げた。
ビルの外で退社していく社員たちを見ながら、ケムヨはタケルを待っていた。
まだ中々タケルは現れない。
ぼんやりと目の前の人間を見つめては、この人の一日はどのように過ぎ去ったのだろうと想像する。
色んな人々がそれぞれ色んなことを考えている。
それが会社に集まれば中には反発しあうものや意気投合するものなど様々な模様が繰り広げられるんだろうと、目の前に大きく聳え立つビルを見上げた。
このトップにいるものは全てを把握しているのだろうか。
それは難しい問題だと、一つの部署内でも把握しきれない様子を思い浮かべて、ケムヨは大きなもの中にいる事を怖く感じてしまうのだった。
そんな時に肩を叩かれて、やっとタケルが来たと振り返ると、そこに翔が居たので目が飛び出た。
「誰を待ってるんだ?」
「えっ、友達だけど。でも翔には関係ないでしょ」
プライベートまで係わって欲しくない。
なんとかして追い払おうと四苦八苦しているとタケルが陽気に現れた。
「遅くなってすみません。あれ、この方はどなた?」
「お前こそ誰だ?」
新たな男の出現に翔はヤキモキする。
「僕は二宮タケルと申します。あの、その」
貫禄がにじみ出ている翔に突然睨まれてタケルは怯えていた。
だが、ケムヨの関係者だということはすぐに察知して、犬が腹を見せるように精一杯笑顔を向けた。
「ちょっと翔、何よ、その態度は。ごめんねタケル。この人もここの会社の社員で今は課長補佐だけど、昔一緒に働いていたの」
「そうですか。それは初めまして。それなら姐御の味方ですね」
タケルは意味深にニコッと微笑んだ。
「姐御? 味方? なんだそれは」
「立ち話もなんですから、一緒にこれから皆で飲みにいきましょう。ねっ、姐御」
親しげにケムヨに話すタケルの態度を見て、翔は感づいた。
この男もケムヨのことを知った上で接触している。
説明してもらいたいと、翔もタケルに微笑んだ。
「それじゃ俺も一緒に連れて行ってもらおうか。申し遅れたが俺は勝元翔だ。宜しく」
「こちらこそ宜しくお願いします」
ケムヨは『和気藹々と挨拶交わしてんじゃねぇ』と叫びたかったが、タケルに背中を押され成り行き上三人で飲みに行くことになってしまった。