第十二章


 翔と別れた後、プロポーズされた言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡っていた。
 あんな言葉を投げかけられて、考えるなという方が無理だった。
 そして将之のことも同じように考えてしまう。
 どこかで貴史の言った言葉が引っ掛かる。
 そこに自分のプライドも交わって、糸がもつれ合ったようにこんがらがっていた。
 こんなことに気を取られている場合ではないのに、情け無用になりきれない弱さを感じ、ケムヨは自己嫌悪に陥っていった。
 家に帰れば、プリンセスがちょこんと玄関先のポーチに座って顔を洗っている。
 側に餌皿があり、すでに空っぽの状態だったのでシズが餌を与えてくれてたようだった。
 ケムヨが近づくと、動きが一瞬止まったが、また続けて念入りに顔を洗い出した。
「明日は雨なの?」
 声を掛けても無視をして、体のあちこちの毛づくろいに集中している。
 ケムヨも隣に腰掛けて暫くじっと眺めていた。
「プリンセス、私分からなくなってきちゃった」
 プリンセスは足を広げたままの姿勢でケムヨに視線を移す。一瞬心配してくれてるようにも見えて、ケムヨはプリンセスの頭を撫ぜた。
「ありがとうね。プリンセスはほんとかわいいね」
 言葉が分かってるわけではないのに、ニャーと絶妙のタイミングで鳴くからプリンセスと会話をしている気分だった。
 ケムヨはもう少しプリンセスの側に居たいと思い、暫くポーチに座り込んでいた。
「プリンセスには彼氏がいるの?」
 猫相手に何を聞いているんだろう。
 プリンセスはノーコメントと言っているように手を舐めて耳の後ろ側や、顔を何度も毛づくろいしていた。
 ケムヨは真っ暗な空を見上げ、雲が動いて星が見えないか息を吹きかけてみた。
 無駄なことだと分かっていても、無性に星が見たかった。
 将之と観に行ったプラネタリウムがとても懐かしく、そして悲しく感じる。
「プリンセス、私一体どうしたいんだろう」
 プリンセスは丸い目をケムヨに向けてじっと見つめていた。
 なんだかその目に哀感が漂っているようだった。

 将之は仕事を早めに切り上げ、家に帰るとご飯も食べずに例の作業に取り掛かっていた。
 毎日寝るのも惜しんで作業をしていたので、もう少しで仕上がるところまできていた。
 今夜頑張れば明日にはケムヨのところに持っていける。
 それを考えるだけで、心ウキウキ、顔が緩んでいった。
 これで劇的に変化が生じて、ケムヨが自分のことを考えてくれると自信があった。
「なんか腹が減った」
 少し息をつこうと立ち上がり、冷蔵庫から何かないかと探っているとき、携帯電話が掛かってきた。
 冷蔵庫から食べられるものを無造作にとって抱え込み、慌ててテーブルの上に置いてあった携帯を手にした。
「なんだ、貴史か」
 以前にも掛かってきたが、結局掛けなおすの忘れてたことを思い出し、ボタンを押して「もしもし」と話し出した。
「おい、将之、なんで電話してこないんだよ」
「悪い、悪い、立て込んでいてね。で、なんか用事か?」
「お前さ、嘘つくのやめろよな」
「何のことだよ」
「ケムヨさんとの事に決まってるだろうが。もう少しで騙されるところだった。賭けは俺の勝ちじゃないか。早く親父さんに俺の会社と取引するように連絡つけてくれよ」
「ちょっと待ってくれ、一体なんのことだ?」
「何言ってんだよ。ケムヨさんはこの間、他の男と抱き合ってたぞ」
「何かの見間違いじゃないのか」
「いや、ちゃっかりとケムヨさんに挨拶したし、一緒にいた男と話もした」
「おい、待ってくれ。その男だが、どういう奴だ」
「薄暗くて詳細は覚えてないけど、背格好は将之と似てたかな」
 将之の顔から血の気が引いていく。
「お前、その男と何を話したんだよ」
「合コンで将之がケムヨさんを口説けるか賭けをしたこと暴露したぜ。それぐらいの罰を与えてもいいだろ。だって俺に嘘ついてたんだから」
「貴史、なんてことしてくれたんだ」
「なんだよ。嘘ついてたそっちが悪いんじゃないか」
「俺、嘘なんてついてねぇーよ。本当にケムヨと上手く行っていた。それに俺のほうが本気になってたんだ」
「えっ、だけど、ケムヨさんは確かにその男と抱きついてたし」
 将之は声がでなかった。パニックになった状態で息だけが荒くなる。手に持っていた食料を床に落としてしまった。
「おい、将之どうしたんだ。大丈夫か。おいっ」
 将之は電話を切った。
 頭の中がこんがらがる。だが上着を取りすぐに玄関に走り靴を履いていた。
 表通りに出てタクシーを探して捕まえ、ケムヨの家に向かう。
 不安で胸が張り裂けそうになっていた。

 ケムヨは暫くポーチでプリンセスとじめじめした夜を一緒に過ごしていた。
 ふと気がつくとぽつぽつと雨が降り出してきた
「やっぱり猫が顔を洗うと雨が降るんだ」
 雨は次第に纏まって降り出してくる。
 そろそろ、家に入ろうと立ち上がったとき、家の前でタクシーが止まった。
 ケムヨがじっと見ていると、ドアから慌てるように将之が現れた。
 ポーチにケムヨとプリンセスが居るのをみて、将之はその場で立ち竦んでしまう。
「ケ…… ムヨ」
 小さく震えるような声で呟く。
 さっきまでポツリポツリと振り出した雨は、次第に雨脚が強くなり、将之の頭上に遠慮なく落ちていた。
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