第十三章
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一騒動が去って落ち着きかけた頃、あとは幸造の体調だけが気がかりだった。
大事を取って暫く入院して安静にしろと言っても、幸造は聞かなかった。
ちょうど週末を挟んでいたので土日を休んだだけで回復したと言い張る。
会社を休めば、年が年なだけに悪い噂が立ってしまう。それが原因で株に影響が出てもたまらない。
無理をしなければさほどの問題がないだけに、お飾りでも社長としての健在をアピールしなければならなかった。
それを考えると、ケムヨも反対することはできない。
父親の幸助はどうしても会社を継ぎたくないの一点張りなこともあり、それならば、しっかりと自分が幸造を支えるとばかりに決心した。
急遽ケムヨは副社長として幸造の側に置かれる事が決定された。
「笑美子、皆に本名と顔が知られることとなるが、異存はないな」
幸造に言われてケムヨは「はい」としっかり返事した。
とうとうこの日が来てしまった。
ナサケムヨは真実を隠してこの会社で働くための偽名だった。
本名は保科笑美子。この会社の社長、保科幸造の孫である。
この会社でケムヨの正体を知っていたのは専務の須賀と数人の役人たち、タケルそして夏生だった。
翔は後にそのことに気がついたが、ケムヨと付き合っていたときは全く知らなかった。
ケムヨが翔と付き合っていたことは、翔の知らないところで幸造の公認の下だったが、ケムヨが翔に本当のことを言えなかったのは、幸造の意図であり、翔の本質を幸造は見抜きたかったからだった。
翔が浮気をしてしまった原因は幸造にも責任がある。
幸造は得意先の会社の令嬢をわざと翔に紹介したのだった。
翔は饒舌でどんな女も虜にしてしまう甘いマスクを持ち合わせているので、令嬢はすぐに翔が気に入り大胆に迫っていった。
その様子を陰で幸造は見ていた。
翔がどのような行動をするのか、このままケムヨを選ぶのか、そんな無謀な賭けを企てて、そして翔はまんまとそれに乗せられて令嬢に現をぬかしてしまった。
野心家でアグレッシブな部分を持つ翔は幸造と似ていて、そこは幸造も高く評価していた。
だが本気でケムヨをどれだけ好きでいるか見てみたかったのだった。
幸造自身、喜美子に惚れ込んでそれを原動力としていたので、そこも自分と同じであって欲しいと願っていた。
だからわざと地位と金がある女を翔に紹介することで、翔は試されたということだった。
翔の野心は突き抜けてしまい、己の自惚れが理性を上回ってしまった。
あの場合避けられるものが居た方が珍しいのかもしれないが、幸造は敢えて自分ならそのようなことはしないと言い切れたので仕方のない結果だったとただ残念に思っていた。
ケムヨには辛い試練となったわけだが、このことは本人には絶対知らせるつもりはなかった。
その後、突然翔が海外転勤になったのも、幸造の計らいだったという訳である。
翔が戻ってきたときも、ケムヨと働かせたのもその後のケムヨの心情の変化を見るためだった。
もし二人がやり直そうと思えば、幸造は無条件で承諾するつもりでもいた。
そうはならなかった訳だが、ケムヨは立派に成長したと幸造は感慨深く思う。
そしてぴったりな伴侶も見つけた。幸造も将之のことは気に入っていた。
幸造が土日病院で入院中、将之はお見舞いに来ていた。
「先日は失礼な格好をして、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした」
カゴに入った果物を持って、将之は深く詫びていた。
「まあいい、楽しい余興じゃったと思えばいいことだ」
ベッドで少し起き上がった状態で幸造は笑いもせずに答えた。
将之はドキドキと心臓を高ぶらせて、恐怖と戦っている。
年はとっても、子供の頃に見た、鷹のような鋭い目はいつ見ても恐怖心が湧いてくる。
「これ、つまらないものですが、お見舞いです」
「ありがと」
低く突き刺すような声で言われると、それ以上話が続かなくなった。
将之の額から汗がこぼれ出てくる。
「他に何か言いたい事があるのかね」
「は、はい。あの、その、ケムヨ、いえ、笑美子さんと、その、お付き合いをさせて頂きたくて、もちろん結婚を前提とした真面目なお付き合いです」
「それで、笑美子とあんたとで、わしの会社を継ぐということか?」
「いえ、会社は笑美子さんが継げばいいと思います。私はしっかり笑美子さんを幸せにして支えたいです」
「あんたは、権力が欲しいとか出世したいとか思わないのか」
「そんなものあまり欲しくはないです。それに、私のようなものには力不足で、だけど笑美子さんがしっかり継げるように私は笑美子さんを命がけで支える覚悟です」
言い切った将之は清々しかった。
固くへの字だった幸造の口元がムズムズとして、とうとう笑い出してしまった。
将之はビクッとしてしまう。
「あんたは、欲がないのう。わしのことをヤクザと間違えるし、本当に面白い奴じゃ」
「お褒め頂き光栄です」
「いや、全く褒めてないぞ」
幸造のその言葉に将之は焦った。
「まあいい。聞くところによると、あんたは笑美子より年下だそうだな」
「はい。年下ですがそれを感じさせないくらいしっかりしたいと思います」
「そうか。まあせいぜい頑張るんだな」
「ありがとうございます」
将之はとりあえず交際を認めてもらえたと思った。
そして、長居は禁物だと言う具合に病室を去ろうとした。
「将之君、待ちたまえ」
名前を親しげに君付けで呼ばれて、将之は非常に驚いた。
「いいこと教えてやろう。わしは婿養子だったんじゃよ。そして妻の喜美子はわしより7歳年上だった。だから将之君も恥じることはないぞ」
「あっ、はい」
将之の顔が突然雲から出てきた太陽のように輝きだした。
そして幸造も滅多に人にはしない愛想を将之には見せていた。