第二章
5
多少誇張されてはいるが、ロッカールームで女子社員が話してた通り、勝元翔は当時付き合っていた恋人を捨てて他の女性に乗り換えた。
ケムヨがその振られた恋人だったから、そのことは噂で聞くまでもなく本人が一番良く知っている。
まだケムヨは世間を知らなさ過ぎた。
それでも真面目で一生懸命だけが取り得というくらい素直で明るく、若さゆえに突っ走る部分があった。
大学を卒業後、社員としてこの会社に入りOLをしていた。
その時勝元翔と知り合う。
翔はまだ駆け出しの新人だったが、後に奇抜なアイデアとその行動力で会社の実績を収め、上からも認められるようになっていった。
実力がある分、敵も多かったが、翔は怖いもの知らずというくらい突き進んでいた。
持ち前の大胆さとほとばしる自信が立ち向かう戦士のように、会社でも国取り合戦のごとく自分の地位を固めていった。
ケムヨはそのアシストをして仕事を手伝ううちに、翔の最も理解ある立場となり二人は知らずと恋に落ちていた。
仕事に響いてはいけないと、ケムヨは内助の功を買って出るように、翔の恋人だということは内緒にしていた。
このまま行けば結婚と言うことも視野に置いていたが、翔は成功と共に力と金を手に入れると歯車が狂いだすようになった。
益々強欲に権力を求め、そしてステイタスという魔力に取り付かれていく。
更に上を目指そうと、野心ばかりが膨らんでいってしまった。
顔も充分いいと元からモテていたが、実績やその地位がプラスされるともっと女性が群がり始める。
女性だけじゃなく、その勢いにあやかりたいとチャンスを狙う男性たちもちやほやするようになった。
仕事の成績は常にトップとなれば上も何も言えなくなり、翔はそのころ天狗になっていた。
それでも自分だけを見てくれているとケムヨは翔をひたすら信じていたが、浮気現場を目の前で見てしまい、もうそれまでだと打ちのめされた。
相手は資産家の令嬢。
美貌も金も地位も備え持った人だった。
元からはっきりと付き合っているとは公にしてなかったので、翔と別れても相手がケムヨだったとは知らず誰も同情してくれるような人もいなかった。知っていても不釣合いだったと笑われるだけだったかもしれない。
だが一人、須賀だけはその状況を知っていた。
ケムヨはそれから気力をなくし、仕事どころではなくなってしまう。このときから性格が暗くなってしまった。そしてすべてにおいて冷めて見る癖がついた。
唯一事情を分かっていた須賀は、落ち込んで会社を退職しようとしていたケムヨにパートという立場を提案した。
その頃翔も急遽海外勤務が決まって顔を合わすこともないので、復帰できるそのときまで気楽にしてみたらどうかと勧めてくれた。
その須賀の一言で、ケムヨは自分の立場をよく理解し、それに従って生きてみようと思い始めた。
世の中は不公平。
そのことを胸に刻み、自分の目で色々と確かめてみたいと人を観察しだしたのもこの頃からだった。
「翔が戻ってくる? おう! 勝手に戻って来いよ」
気にしないと強がっていても、あれほどに恋をしたことはなかったことから、心の傷はうずいて仕方がない。
動揺を隠そうとケムヨは仕事帰りにコンビニで酒を買い込んだ。
「ええい、飲んでやる」
強くならなければと、ぐっと体に力を込めて酒の缶が入ったコンビニの袋を手に持ち闊歩していた。
あと少しで家に着くというときだった。辺りが夕暮れの闇に飲まれるようにぼんやりとして夜の訪れが迫っていた。
そんな薄暗い中、後ろから突然肩を叩かれ、ケムヨは飛び上がって驚いてしまった。
振り返って二度びっくり。
「よっ、奇遇だね」
「ああ! 将之! なんであんたがこんなところにいるのよ」
「へへ、これも運命かな」
「ちょっと待って、何が運命よ」
ケムヨは驚きを通り過ごして怒ってしまう。
自分がここに住んでいることは元恋人の翔と親友の夏生以外誰にも話していない。
翔は論外だし、夏生が情報を漏らすわけがないし、偶然に将之とここで会うことなんて確立で考えたらないに等しい。
そしてはっとした。
「あんた、あの時タクシーの運転手を買収したわね」
将之が乗車賃金を前もって払ったということはこういうことだった。
ケムヨがどこに住んでいるか連絡するようにタクシー運転手にお金を渡していた。
「ご名答」
しゃーしゃーと将之は悪びれる様子もなく答える。
「しかも私が帰ってくるまで待ち伏せしてるし、ちょっとこれじゃストーカーじゃない」
「いや、違うな。だって俺達友達だろ。だったら友達に会いに来て何が悪いんだ?」
「でも住んでるところを隠れて探し当てるってのは反則じゃない」
ケムヨが怒っていても将之は素知らぬ顔だった。話を擦り変える
「あれ、一杯酒を買ってるじゃないか。もしかして俺がここに来ること予め分かっていて用意してくれてたんだ。なんだ歓迎してくれてるんじゃないか」
「ちょっとどうしていつも話がこじれるのよ。そんな訳ないでしょ」
ただでさえ、突然の招かれざる訪問客で揉めてるときにさらにまた余計な頭痛の種が発生した。近所の知り合いのおじさんが寄って来たのだった。
おじさんというより、孫も何人もいるような隠居生活をしているおじいさんだった。
「おっ、お嬢、お帰り。もしかしてその人、お嬢の恋人?」
「お嬢?」
将之がその言葉を繰り返す。
ケムヨは将之をその老人から隔離するように自分が前に出た。ピンチに陥ったように体から汗が急に噴出してくる。
つい慌てふためいて力を入れて否定した。
「いえ、ただの知り合いです! それにしても、最近暑くなってきましたね。おじさんも体に気をつけて下さいよ」
「ああ、わしは大丈夫じゃ。お嬢のじいさんはどうじゃ? まだあの世界で暴れとるんだろうな。この街が落ち着いてるのもあの人のお陰だし、まあ、じいさんに宜しく言っておいてくれよ」
「あ、はい、ありがとうございます。それじゃすみません、失礼します」
ケムヨは一刻も早くこの場から去ろうと将之の背中を無意識に押していた。
「おい、何慌ててるんだ。それにあんたのじいさん何やってんだ」
「そういうことはどうでもいいの」
気が動転して焦ってしまい、結局は将之を家の前まで連れてきてしまった。
そして将之は突然連れてこられた場所に目を丸くした。
「えっ、なんだよこの建物は……」
将之は目の前の建物に驚き、その隣でケムヨは再び頭を抱えていた。