第二章
7
先日知り合ったばかりの男を自分の部屋に自ら連れ込んでしまい、ケムヨ自身訳が分からずにあまり深く考えないようにしようとビールを飲んでいたときだった。
「なあ、表で会ったおじいさん、ケムヨのこと『お嬢』って呼んでたよな」
将之が何気に聞くとケムヨは意表をつかれたようにゴホッとむせてしまう。
「それにあの管理人の夫婦も夏生お嬢様とか丁寧に呼んでるし、この辺りに住む人は女性をお嬢やお嬢様とか言うのか?」
「そうなんじゃないの。いちいち考えたこともなかった」
ケムヨはしらっばくれるようにそっけなく答えているが、将之には何かが引っかかっていた。
またいつもの癖でしつこくなるシステム装置が作動した。
「ふーん。だけどケムヨのじいちゃん何してんだ? あの世界で暴れとるって言ってたよな」
あくまでもさりげなくだが、将之の目は何かを読み取ろうとキラリと光る。
「えっ? 私の祖父のことはあんたに関係ないでしょ。なんでもいいじゃない。それにただ元気っていう意味よ」
「えっ、なんか気になるんだよな。このアパートも外と中じゃ全く違うし、そこに上品な夫婦の管理人だろ。まるで金持ちのお宅じゃないか。ここ家賃いくらだよ」
「それも関係ないでしょ。いくらでもいいじゃない。お金と宗教については人前では話さないことにしているの」
「金と宗教は人前で話さないか。それじゃ君自身のことについては話してくれるかい?」
「それは人によります。将之とは心許せるほどまだ仲良くなってませんから」
「そうだな。これから仲良くなってからだな。その時は俺も自分のことを話そう。俺が自分のことを何もかも話すとき、その時はケムヨをもう手放したくないときかもしれない」
将之はそう言い切るとごくっとビールを飲んだ。
「また、歯の浮くような言葉をシャーシャーとかっこつけて言ってくれるわね」
ケムヨも缶ビールを口元に寄せる。
そして一瞬、間が入ってから残りを飲み干した。
将之の言葉が少し引っかかったのだった。
自分のことを何もかも打ち明けた男はまだいない。あんなに好きだった勝元翔ですら話すことができなかった。
もし話していたらまた違った関係を築いていたのかもしれない。
ケムヨの祖父がよく言う言葉。
『本質を見極めたかったら、爪を隠す鷹になれ』
ことわざの能ある鷹は爪を隠すから由来していると分かっているが、ケムヨの祖父はとても厳しい人である。というより、怖い。
孫のケムヨに容赦なく人生というものを教える。それもダークな方面の方が多い。
こうなったのも祖父の息子、ケムヨの父親のせいだった。
父親は身勝手な人であり、好きなことをしてケムヨを困らせている。
父親の尻拭いをやらされていると思っているところがあり、ケムヨは父を恨んでいた。
そして母親はその父親の肩を持ち、二人は遠い世界へと行ってしまった。
だから人生は不公平とまた強く思ってしまうのだが、それでも自分がそんなに不幸とはあまり実感していない。
この先ずっとこのままでそして年を取って死んでいく。
それが『自分の人生だ』とやっぱりケムヨは冷めた目で見ていた。
「ケムヨも寂しげな瞳になるときがあるんだな」
不意に将之が呟いた。
「ケムヨも何か人に言い辛いことをかかえてるんだろうな。そのせいで時々暗い闇に落ちていく」
「何よそれ、将之がしつこいから困っててそうなってるんでしょうが」
「でも、俺のことそんなに嫌じゃないだろ? 部屋にまであげてくれたんだから」
「成り行き上、そうなっただけで、それとこれとは違……」
ケムヨがいいかけたとき、折りたたむように将之が話す。
「今度、俺んちも見せてやるよ。そしたらおあいこだろ」
「え、遠慮するわよ。あんたと二人っきりになったら何されるかわからないわよ」
「えっ? もうとっくに二人きりになってるじゃないか」
ケムヨははっとした。そういえば将之は自分の部屋に居て二人っきりになっている。
「あっ!」
この状況がいかにおかしいか改めて気がついた。
「酔った勢いに身を任せてみる?」
将之は部屋の隅にあったベッドを指差し、含み笑いをする。
「酔ってなんかないわよ! 手出したら大声で叫ぶからね。そしたらシズさんもゲンジさんも飛んで来るんだから」
ムキになって子供のように怒るケムヨを肴に将之は愉快に笑いながらビールを飲んでいた。
そんな気が全くないと言ったら男なので嘘になるのかもしれないが、少なくともこのとき見る将之はからかっているだけにしか見えなかった。
なんだかケムヨも最後は自虐的に笑えてきた。
将之が現れたことによって、翔のことでイライラしてた気持ちがすっかり紛れているのは悔しいながらも認めざるを得ない。
現実を受け入れるように、ケムヨはもう一缶ビールを手にして、それを将之に突き出した。
「ほら、もっと飲め」
「サンキュー」
将之も楽しいと素直に笑顔になってビールを受け取った。
この瞬間ケムヨは将之と本当に友達になったような気がした。