第三章


「ちょっと、昨日もここに来てたの?」
 将之に飲まれてはいけないと体制を整え、ケムヨは呆れた声で責める。
「うん、昨日、俺がここへ来たときはケムヨはもう家に居たみたいだね。偶然窓からシルエットが見えた。仕事いかなかったのか?」
 だがそんな問い詰めにも将之は堪える訳もなくあっさりと返され、反対に再びケムヨが追い詰められた。
「えっ? い、行ったわよ、でもちょっと早く帰ってきたのよ。私パートだから時間自由なのよ」
 突然パーティで追いかけられたことを思い出し、将之にばれてそれを調べに来たのではないかとケムヨは緊張した。
「ふーん、パートなのか。それにしてもそれにそぐわない暮らしというのか、見かけと中身が合ってないというのか、なんか全てにギャップがあるな」
「な、何よ! そんなのあなたに関係ないでしょ。それに黙って家の周りをうろつくなんてストーカーじゃないのよ!」
「普段は冷たく冷静なのに、ムキになるところがなんか怪しい」
 暗闇で将之に顔を突き出されてケムヨは後ろに仰け反る。
 将之は闇の中でどうにかしてよく見えるようにしようと目を細ませた。
「あんた、アレだろ。親のすねかじりの我まま娘」
「ちょっと失礼ね。私は私なりにきっちりとやるべきことはやってます。将之こそ親の会社をぬくぬくと継いで何も苦労してなさそうじゃない」
 ケムヨは負けずに応酬する。
 その言葉に反応して、暗闇の中でも充分将之の目つきが鋭くなったのがわかった。
「ふん、分かったような口聞きやがって。ああ、勝手に想像してくれ」
 からかい気味でおちゃらけだった将之の態度が一変する。明らかに怒りの炎が淡く街灯に照らされて瞳に映っていたように見えた。
「何よ、言いだしっぺはあなたじゃない。今日は私疲れてるんだから。あなたに構ってる暇なんてないの!」
 将之から離れたいと思ったその時、ケムヨの足元を何かが触れた。
 それに驚き「キャッ!」と声を上げるとバランスを崩して将之に抱きつくように倒れこんでしまった。
「おいっ、大丈夫かよ」
 将之も咄嗟のことに条件反射で軽く抱きしめるように受け止める。
 事故だったとはいえ、お互い体を密着させてしまった。
 ケムヨは抱きかかえられたまま何が起こったのかわからず、その時、時間の概念が吹き飛んでしまった。
 温かな体温のぬくもりを微かに感じ、しっかりと受け止められた胸板の厚さに頼りたいという感情を呼び覚まされる感覚に陥る。
 かつて恋人だった翔に抱きしめられていた心地よさが脳裏に浮かぶ。
 暫くそんな感情に支配されていたが、「ニャー」と足元から声が聞こえ、ケムヨは目が覚めたようにはっとして将之から離れた。
「あっ、プリンセス!」
 将之はさっとしゃがみこみ猫と向き合った。猫は少し後ろに後退しながらも将之の様子を伺っている。
「やっと会えた。ほら、煮干持ってきたぞ。食え」
 煮干を猫の目の前に突き出すと、用心深く距離を置いて鼻をヒクヒクとして匂いを嗅いでいる。
 ようやく食べ物だとわかってきたのか、少しずつ近づくが警戒心で体は後ろに引っ張られるように前を進んでいる。
 やっと煮干に近づき鼻がくっつくほど匂いを嗅ぐと、食べたいという感情が芽生えて舌でペロペロとなめだした。
 将之が煮干をもっと突き出すと、猫は怯んだ。
「コイツ用心深いな」
 煮干を軽く投げて、猫の足元に落としてやった。
 猫はそれを素早く口に銜えて走り去る。
「あっ、銜えて逃げやがった」
 将之はゆっくりと立ち上がり、暗闇に逃げて見えなくなっても猫がまだ戻ってくるのではと期待して待っていた。
「猫なんてあんなものよ。自分主義で誰の言うことも聞かず、そして頼らずに気ままに生きていく」
 ケムヨは自分の心情と重ね合わしたかの言葉を発す。
「そっかな、まだ警戒心が強いだけさ。慣れたらそのうち寄って来る。そして人間に頼ることも悪くないって学んで行くぜ。猫だって体を撫ぜられるのは好きだと思う。ケムヨだってそうじゃないのか」
「はっ? どういう意味よ」
「別に深い意味はないんだ。なんとなくそう思ったってこと」
 将之は事故だったとはいえ、ケムヨが自分に倒れ掛かってきたことを考えていた。
 強がってはいるが、ケムヨを抱きしめたとき華奢な体つきが壊れそうだった。
 そして一瞬でも自分の胸の中で大人しく収まって、それが普通の女の子らしく弱々しいものに思えた。
 本当は誰かに頼りたいという気持ちを秘めているのではないだろうかとふと頭によぎったのだった。
 ケムヨも心の中を見透かされた居心地の悪さを感じ、話を逸らそうとした。
「だけど、あの猫がなんでプリンセスよ。ただの汚い三毛猫じゃない。あれは絶対野良猫よ。勝手に餌なんかやったら後が困るじゃない」
「三毛猫って遺伝子上の関係でほとんどがメスだろ。それに色んな色が混じってパッチワークみたいでさ、ツギハギだらけの衣装を纏ったシンデレラって感じが してさ、だからプリンセスって名づけた。心配するな餌をやるからには俺は責任を取るよ。俺に慣れて、捕まえられるようになったら俺が飼う」
「そこまで考えてたの?」
「まあね。でもまずは手懐けないことには話しにならない。俺だって飼うならまずは好かれたい。そしてそのときが来たら俺が救ってやるんだ」
「なんか大げさね。まるでどこかの王子様のよう」
「王子様か。それもいいな。なんだったらついでにケムヨの王子様になってもいいぜ。合コンでも言っただろ、俺が救ってやるって」
「結構よ! 王子様はもう要らない。私は一人で自分の力で生きていく。そんな女なの」
「王子様はもう要らないって、まるで過去に王子様が居たみたいだな」
「まあね、二人いたかしら」
「なんだよ、もしかしてその二人に振られたのか」
「そうね、一人は振られたけど、もう一人は死んじゃったわ」
「えっ? 死んじゃったってどういうことだ」
「もうそのことはどうでもいいの。夢を見る年じゃなくなったってこと」
「一匹狼ならぬ、一匹猫ってとこか?」
「なによそれ」
「気ままに暮らす気品高い野良猫のような女性の例え」
「ちょっとそれって侮辱してるの? 将之に言われたくないわ」
「いいじゃないか。おれはそんな猫も女も好きだ。さてとそろそろ帰るか。今度はプリンセスに何を持ってこよう」
「あなたまた来る気?」
「当たり前だろ、プリンセスを手懐けるんだから」
「それなら罠でも仕掛けて捕まえればいいじゃない」
「ケムヨだって会ったばかりの男から無理に結婚迫られても困るだろ。猫だって無理に捕まえられて嬉しくないはずさ。それと一緒さ」
「なんでそうなるのよ」
「すぐに捕まえても面白くないし、それにケムヨに会いに来る口実が減るじゃないか。それじゃな」
 言いたいことを言ってさっさと将之は去っていった。
 どこまでも強引で無理がある。それはホテルのパーティで追いかけられて実証されているはずなのに、それでもいつも将之の行動には驚かされる。
 そして闇に溶け込むように去って行く将之の後姿を見てケムヨは無意識に口元が微笑んでいた。
 呆れもあったが、憎めない奴だと本当は分かっていた。
 将之は一度振り返る。もうシルエットしか判別できなかったが、しっかりと手を振っていたのが見えた。
「またな、ケムヨ」
 まるでケムヨが見送っているのを知ってたと言わんばかりに、将之の声は優しく暗闇のまどろみの中、粒子のように漂ってケムヨの耳の中で気持ちよく弾けていた。  
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