第四章

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 この日は仕事が余分に入り本来の自分の任された仕事に集中できなかったために、ケムヨはそれを取り戻そうと少し残業していた。
 パートなので残業は上から許可を貰わないと給料に加算されない。
 それを知っていたのでこれはただ働きになるが、ケムヨは気にもしなかった。寧ろ、やるべきことはきっちりとこなさなければ気がすまない。
 万が一それが原因で不利益に繋がることを恐れているような性分だった。
 満足行くまでやるべきことを済まし、最後に在庫チェックをする。
 足りないものがあり、それを取りに在庫室へと向かった。
 これを済ませば帰れるところだった。
 張り詰めていた気も安らぎ、週末のほっとする気持ちが湧き起こると同時に、翌日将之が迎えに来ることを思い出す。
 どこに連れてってくれるつもりだと、将之にすっかり慣れてしまってからは、なんだか楽しみになってくるから不思議だった。
 あまり人との接触を好まずに避けていた人間関係だったが、将之の無理な強引さは、びっくり箱を突然開けて意表をつかれ、そして不覚にも驚いてしまった自分がおかしく思えてくるのだった。
 びっくり箱の中から出てくるものは大概おどけたピエロだったり、蛇のような縫いぐるみが突然飛び出したりと元々笑わすために用意されているものである。
 びっくり箱に驚いて怒る人っていないことだろう。
 将之はまさに楽しませてくれるようなそんなびっくり箱みたいな存在にいつの間にかなっていた。
 時折、真剣に腹が立ってつい叩いたり、怒ったりしてしまうけど、その後は後腐れがない。
 将之が自分のことを気に入ってくれているという気持ちを知っているから、それに便乗して利用しているのかもしれない。
 それでも少しずつ将之のことが見えてくると、付き合うのも悪くないと思ってしまうのだった。
 この場合の付き合うは、一緒に飲んだり、話したりする程度で、恋人としてではない。
 その辺を強調して自分で再度訂正するように確かめてしまった。
 将之に一本取られた訳でもないのに、ついムキになってしまうとおかしくなって顔が弛緩した。
 そんなことを頭に巡らして在庫がある部屋に何も考えずに入ったものだから、中でまたあの光景をみてしまいケムヨは凍り付いてしまった。
「なんだ、また君か」
 吉永が睨みを利かせて言った。
 その言葉はケムヨが言いたかった。
 一度ここで情事を見られたら、危ないとは考えられないのだろうか。
 何度も同じ場所で試みる。バカの一つ覚え。
「失礼します」
 ケムヨは余計な置物がそこにあると見なして、必要なものを手に取った。
 だが、嫌味の一つでも言いたくなる。
「恐れ入りますが、ここでのそのような行為はご遠慮お願いいたします」
 パートのケムヨに言われ、吉永は簡単に怒ってしまった。
「うるさいんだよ。たかがパートの癖に。お前を辞めさせるには簡単なんだからな」
 ケムヨは何も言わず、じっと吉永の目を悲哀に見る。
 こんな人間がこの会社で働いていることが辛く残念でならない。
 しかし吉永はケムヨが辞めさせられると聞いて悲しんでいるだけだと思い、バカにしたように笑っていた。
 隣で不倫相手も嘲笑うように見物していた。
 課長のような存在に可愛がられて自分の立場に優越感を感じているようだった。
 ケムヨはしっかりとその光景を見つめていた。
「それではお先に失礼します。吉永課長」
 ケムヨは深く礼をして踵を返して出て行った。そして、コツコツと踵を鳴らしながら廊下を歩いていく。
「こういう理由があれば本当に辞めさせられるのは簡単にできることなんだろうか」
 小さく呟いていた。

 この日を振り返れば、朝から優香に八つ当たられ、タケルに相談事をされて聞きたくもないことを聞き、多恵子に敵意を向けられて、最後は吉永の情事をまた見てしまい権力を振りかざされた。
 疲れた一日だった。
 また酒を飲みたくなって、家に帰る前に近所のコンビニに寄って酒を買い込む。
 おつまみも一緒に買おうと手を伸ばしたとき、ふとプリンセスのことを思い出した。
「あっ、餌やりを頼まれていた」
 そこで猫の餌になるものを探し、猫のおやつと書かれたパウチパックを見つけ手に取った。
 鶏のささ身と書いてあり、お手ごろ値段だったのでそれに決める。
 そして家に帰れば、門の側に小さな塊の影が目に入った。
 将之が毎日そこで餌をやっていたので、猫はすっかりその味をしめていた。
「やはり来ていたか」
 だが、ケムヨが近づくとすぐに警戒して離れていく。
「ちょっと待って」
 猫相手につい気を遣って呼び止めてしまった。
 将之がやり始めたことなのに、自分も巻き込まれて何をしてるんだと思いつつ、猫のおやつの袋を取り出して封を空け、中に入っていた鶏のささ身一本をプリンセスに投げた。
 プリンセスは何かを自分に投げてくるときは餌だと学習したかのように、すぐに寄って来て匂いを嗅ぐと目の前で食べ始めた。
「あれ、持って行かずにここで食べてる」
 ケムヨは暫くその様子をじっと眺めていた。
 プリンセスは人間に慣れつつある。
 何度も接触して餌を貰えば少しは信頼度が深まってくるのだろうか。
 時々見かけていた猫だったが、それほど気にもかけたことなどなかった。
 将之が餌付けをしだしてから、ケムヨにも次第にプリンセスが生活に取り込まれていく。
 プリンセスが将之に懐いたとき、将之は飼うつもりでいる。
 それが二人で行動を起こすプロジェクトのようにも感じてしまった。
 そしてプリンセスも将之に近寄られて徐々に変化しつつある。
 なんだかそれも自分みたいに思えてしまう。
 ケムヨはプリンセスに声を掛けてみた。
「ねぇ、プリンセス。将之のことどう思う?」
 一瞬プリンセスは顔を上げたが、またすぐに残りのささ身を忙しく噛んでいた。
 ケムヨはそれでも答えを待つようにひたすらプリンセスを見詰めていた。
 プリンセスが全てを食べ終わると何度も口の周りを舌で舐め、ケムヨをチラリと見てもう餌が貰えないことを確認してから去っていった。
「プリンセスもまだどう思っていいのか迷ってるってとこなのかな」
 ケムヨは自分で言ってしまってから、『プリンセスも』という『も』に驚いてしまった。
 自分も将之のことを考え始めている。
 いつの間にか気になる存在へとなっていることに驚いて頭をブンブンと横に振り、仕舞いにはくらくらしていた。
「ありえない、ありえない」
 急いで家に入り、自分の部屋に入ってすぐに買ってきたビールに手をつけてプルタブを引くと焦るようにごくごくと飲みだした。
 息継ぎに口から缶を外せば「明日か」と息を吐くように呟いていた。
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