第四章


 翌日、身支度が整って朝食を食べにダイニングへとケムヨは向かった。
「お嬢様、今日はあちらのお仕事ですね。掛け持ちで働くのも大変ですね。どうかお体にはお気をつけて下さい」
 シズがダイニングテーブルにコーヒーを差し出した。
 やはりここも、アンティークの古さはあるが外見のおんぼろの建物にふさわしくないくらいの立派な雰囲気のする空間だった。
 金持ち風の洋館の中のダイニングルームと呼ぶのにふさわしい作りをしていた。
 椅子に腰を下ろし、用意されていた朝食の隣で新聞を広げ全てを把握するように見つめながら、ケムヨはシズから出されたコーヒーを手に取って口をつける。
「働くって言ってもまだ本格的なことはしてないし、掛け持ちしてるせいで気分は楽なのかも」
「だけどいつかは旦那様をお継ぎになる時がきます」
「その時はその時ってことね。本当は継ぎたくないのに。全ては父のせいなんだから」
「順番でしたら、若旦那様が次の跡取りなんですけど、放棄されましたからね」
「だから恨んでるのよ。それに私を捨てて母と逃げるように遠いところいっちゃうし。無責任すぎる。あれでも親か」
「でも、お二人ともお元気でいらっしゃるでしょうか」
「逃げるくらいの体力あるんだから、もちろん元気でやってるでしょう」
「たまには顔を見せにでも帰ってこられるといいんですが」
「帰ってきたらただじゃおかないんだから」
 ケムヨは熱いコーヒーに息を吹きかけて冷ますが、冷まさなければならないのは自分の頭だと気がついた。
 そんなことを今更考えても仕方がないと、自分の与えられた仕事をこなす覚悟をする。
 やるべきことがあり、必要なものも揃って持っているから余計な心配事を抱えずに済む。
 自分は恵まれている立場だと再認識して、湯気が立つ熱いコーヒーをすすっていた。
 そして朝食を食べた後、シズに見送られながらゲンジが運転する車に乗って仕事場に向かった。
 ケムヨにとったら雑用をするパートの方が気が楽だった。
 それでもこの日の仕事もやりがいがある点では頑張りたいと結局は思ってしまう。
 本業はこちらだが、隠れながらこそこそと働いていた。
 ナサケムヨという名前は全くの仮名であり本名を隠しているが、こちらの仕事をするときは本名で働いている。
 ただ表に出ず、顔はあまり知られないようにしているのには後ろめたい理由があるからだった。

 この仕事を終えるときは、いつもはゲンジが迎えに来て、帰りもその車に乗って帰るが、最近将之と知り合ってしまい、そいつが時折家の前でうろちょろすることを考慮すると送り迎えをされていることは知られたくなく、帰りは自分で帰るとゲンジに伝えていた。
 パートと違って頭を働かせることばかり続き、神経も磨り減ってるためにとても疲れていたが、皆そんな中を通勤している。
 自分ばかりが特別ではないと、サラリーマンに囲まれた電車の中でケムヨはつり革を持って揺られていた。
 そして案の定、家の前に来ればあの男が見事にそこに居た。
 あまりの分かりやすさに、ケムヨは思わず噴出してしまう。
 どこまでもしつこく拘る男。
 根性が据わっている奴なのか、只のおバカなのか、その時は後者だと思ってケムヨは将之に近づいた。
「やっぱり今日も餌付けに来ていたのね。プリンセスとは会えたの?」
「少しこの辺りも歩いたんだけど、まだ出会ってない。それならここで待ってた方がいいだろうと思ってね。今構えているところ」
「それで今日は何で釣るわけ?」
「これさ」
 将之は手に提げていたビニール袋を前に突き出した。
「何よ、これ。缶ビール、イカの燻製にスナック菓子」
「一杯やろうぜ」
「ちょっと、猫を手懐けにきてるんじゃないの?」
「もちろんそうさ。ちゃんと煮干をそこに置いたよ」
 門の端に煮干が乗せられた小さな紙皿が置いてあった。
「俺が側に居ると、警戒して近づいてこないかもしれないから、少し離れていた方がいいと思うんだ。さあさ、ケムヨの部屋で飲もうぜ」
 将之はケムヨの背中を押して門を押して、ドアの前へと突き進んだ。
「ちょっと待ってよ。なんでそうなるのよ」
「友達だろ」
「おいっ!」
 ここまで強引だと圧倒されすぎて言われた通りに行動させられてしまう。
 気がつけば、ドアは開けられ家の中に入っていた。
「お帰りなさいませ」
 シズは挨拶するも目の前の将之を見て動揺していた。
「どうも、お邪魔します。いや、ケムヨさんから一緒に飲もうって誘われたもので」
 しゃーしゃーと将之は笑顔で答える。
「誘ってなどおらん!」
 ケムヨは訂正するが、シズはお客様の手前上、丁寧に受け答えするしかできなかった。
「そ、そうですか。ええと、何か手伝えることがありましたら、声を掛けて下さいね」
 できるだけ将之の前から姿を消した方がケムヨのためだとシズは控えめに二階へと上がっていった。自分が何か言ってケムヨの不利益になっては困るからだった。
「もう、仕方ないわね。どこまであんたはずうずうしいのよ」
 ぐちぐちといいながら靴を脱ぎ、結局はなす術もなく将之を家に上げてしまった。
 しめたとばかりに将之は上がりこみ、そして二度目はじっくりと家の中を見渡す。
「あのさ、部屋はまだあるみたいだけど他にここの部屋を借りてる人はいるのか?」
「えっ」
「なんだかこの建物不思議なんだよな。見かけがぼろいのに中はそうでもないだろ。古ぼけているけど、それは価値あるアンティークで結局は高そうに見える。一体ここはどういうところなんだよ」
「あんたが気にすることないでしょ。分かったから、早く飲もう」
 余計な詮索をさせまいと、ケムヨは将之を押し込むように部屋に入れる。
 それが将之の思う壺に嵌っていると気がついても、そうなるように何かに操られているような錯覚を覚えずにはいられなかった。
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