第四章


 結局は将之を突き飛ばすように部屋の中に入れてしまったが、自分は何をやっているのだろうとドアを閉めてからケムヨは頭を抱えてしまった。
 不可抗力。
 そう思えるくらい自然とそうなってしまう。
 深く考えても仕方ないと、この時は諦めるように将之に視線を向けた。
 将之は押し込まれた反動でぐらつきながら、部屋の真ん中に立ってケムヨを見つめる。
 良く見ればケムヨはきっちりと化粧をして、キャリアウーマン風にスーツを着こなし気品があった。
「なんかえらく今日は雰囲気が違うな。気合が入っているというのか、艶やかさがある。一体どうしたんだ?」
「別にどうもしてないわよ。とにかく早くそれ頂戴」
 本業の時はそれなりにきっちりとしたものを着て、化粧もしっかりとすることをつい忘れていた。
 しかも腕にはロレックスの時計をつけている。
 また何か言われると困るので、手を後ろに回しできるだけ上着の袖の中に押し込んでいた。
 将之はあなどれない。敏感に変化を読み取っている。なんだか追い詰められて焦る化けた狐のような気分になった。
 主導権を握られてたまるかと、缶ビールを手渡す将之の手から引っ手繰るように受け取った。
 そして机に備え付けられている椅子を引っ張り出してどさっと座り込む。
「将之も適当に座って」
 ケムヨに声を掛けられ、将之は辺りを見回してベッドの上に腰掛けた。
「とにかく、飲んだらすぐ帰ってよ」
「またそれかよ。いいじゃないかゆっくりしても」
「ダメ。なんでそう、いつも強引に押しかけてくるのよ」
「プリンセスに会いに来るついでだし、ケムヨがここに住んでるから挨拶くらいした方がいいと思って」
「だからそれはこじつけでしょ」
「それじゃ、なんていえばいいんだよ。ケムヨに惚れてそれでアタックするために来ているって言えば満足するのか」
「満足も何も、それは結局はストーカーじゃない」
「もうそれでいいや」
 将之は開き直って、缶ビールのプルトップを引っ張った。
「それじゃ、ストーカー認定に乾杯」
「ちょっと自分で認めてどうするのよ」
 将之はケムヨの突っ込みを笑顔で受けて愉快とばかりにビールを飲む。少しぬるくなっていたが一人で飲むよりよほど美味しく感じた。
 結局は将之の思う壺にケムヨは踊らされる。
 ケムヨも反論するのに疲れて缶ビールを飲み始めた。一口飲めば、喉が渇いていたことに気がつき、そのままごくりと飲み続ける。
「おっ、いい飲みっぷり。ケムヨは酒に強い方か?」
「かもしれないわ。昔はあまり飲まなかったけど、一度飲んだら味を覚えたって感じかも」
 ビールの味を知ったのは翔と出会った頃だった。
 あの頃は仕事に忙しく、それに追われ続けだった。そして終わったときの達成感と共に飲むビールが美味しく感じたものだった。
 そこに一緒に仕事のことを熱く語り合える翔が目の前に居て、そして次第に気持ちが通じ合って心もウキウキしだし、いつしか恋に変わっていった。
 楽しい思い出でもあり、同時に悲しい思い出でもある。
「どうした? なんかどこか別の次元に飛んでいったような目をしているぞ」
「いちいちうるさいわね」
「だけど、物思いに耽っているケムヨもなかなかきれいだった」
 将之があまりにも自然にさらりと褒めるから、ケムヨはドキッとしてしまう。
 男性からそんな言葉を聞くとは思わなかった。ここ数年は地味に目立たず暗くをモットーにひたすら自分を押し殺してきた。
 それなのにこんな自分に興味を持って追いかけてくる男がいる。
 将之をじっと見てしまった。
 将之はにこりと笑みを浮かべて、美味しそうにビールを味わっている。
 そんな姿を壊すのが嫌でケムヨは聞かなかったことにして、同じようにビールを飲んだ。
「なあ、絵を描くのが趣味なのか?」
 脈絡もなく質問し、画材道具が置かれているケムヨの机の上に視線を落としながら、将之はおつまみの袋をケムヨに投げた。
 ケムヨはそれを受け取り、中から輪っかになったイカの燻製を取り出して、輪ゴムをかじるようにして答えた。
「下手くそだけど、描くのは好きなんだ。絵を描くのはストレス発散にもなる。頭の中に浮き上がったイメージを絵に表しているときって、没頭して楽しいんだ」
「なんか分かるような気がする」
「そこには辛いことも嫌なこともなくて、楽しい自分だけの世界があるの。そう思っているときがなんだか心落ち着いてくるんだ」
「それは妄想になるんだろうけど、それが広がれば広がるほど想像力がかきたてられる。好きなものには楽しい一時に違いない」
「まあ、自分の腕次第だから、結局は上手く描けないと意味がないんだけどね。だけど、将之も同じように思ってくれるとは意外だ。もしかして将之も絵を描くの?」
「いや、俺は描かない」
 将之は缶を口元に持っていきビールを飲んだ。
「それじゃ将之の趣味は何?」
「俺の趣味か。これといって思いつかないや」
「好きなこととか、やりたいことないの?」
「そうだな、じゃあ敢えていうなら、セックス」
 ケムヨは立ち上がり、ツカツカツカと将之の前に立つと、頭をばしっと叩いた。
「バカ!」
「いてっ、いきなり何するんだよ」
「あんたが馬鹿なことを口走るからでしょうが」
「正直にやりたいこといっただけじゃないか。俺、男だぜ。それくらいの欲望もったっていいじゃないか」
「だから、それをいちいち私に言うな」
「聞いたのはそっちじゃないか」
「もっとまともな答えが返ってくると思ったわよ。それじゃ今日はこれまで。退場」
 ケムヨはドアを指差す。
「おいっ、まだ飲み始めたところじゃないか」
「そんなのどうでもいいの」
 ケムヨはオウムのようにギャーギャーと騒ぎ立てて将之を責め立てていた。
 将之はそれも悪くはないとやっぱり微笑む。
「今日のケムヨは怒った顔もクールでかっこいい」
 そういって、残りのビールを飲み干した。
 ケムヨは固まって黙り込んでしまった。
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