第四章


 昼休みが終わると、ケムヨは急ぎの仕事の助っ人を頼まれ、指示された場所に出向かう。
 そこはタケルが働いている部署であり、またタケルと出会ったことで二人にしか分からないやり取りでお互い軽く微笑んだ。
「君が助っ人か」
 吉永課長が汚いものでも見るように上から目線でケムヨを一瞥する。
 ケムヨも無表情でいたものの、心の中では辟易していた。
 吉永は先日いらぬところを見せてしまったことを隠すようにきつくケムヨに命令する。
「余計なことは口出ししないようにやるべきことだけやって欲しい」
「はい、かしこまりました」
「それじゃ、詳しいことは井村から聞いてくれ」
 吉永は多恵子を軽く紹介し、あとは知らぬとさっさと用があるフリをしてオフィスを去る。
 ケムヨに不倫現場を見られたことで少なからずも後ろめたさというものがあったみたいだった。
 タケルは吉永が去った後、口パクで頑張ってとにこやかな笑顔を添えて応援し、そして自分の仕事に張り切るようにとりかかっていた。
 多恵子はタケルが見せた態度に反応するかのように、一度ケムヨに会ってるにも係わらず、冷たい視線でケムヨを一瞥し何も言わなかった。
 またなぜケムヨがここに居て自分と一緒に仕事をするのかが理解できない。
「それじゃ、始めましょうか。宜しくお願いします」
 ケムヨは礼儀正しく挨拶するが、多恵子は無視して踵を返して自分のデスクに向かってしまった。
 ケムヨは鼻から息をスーッと吐いて、そして気合を入れて後を着いていった。
 別に嫌われていてもどうってことはなかった。いつものことで慣れている。それに何をすべきかもこの部署のことも全て把握していた。
 多恵子の隣のデスクはすでに手伝い用にと用意されているのが一目瞭然だったため、ケムヨはそこへ何も言わずに腰を掛けた。
 頼まれた仕事は簡単なものだった。
 顧客から取ったアンケートをまとめて、それをコンピューターに打ち込んでいき、顧客資料を作成する。
 多恵子は回収したアンケートが入った箱をケムヨに押し付けるだけで、何も言わなかった。
 箱は一つではなかった。残りは他の男性社員が運んで来た。
 その男性社員は名を清水茂といい目が少し離れて魚っぽい雰囲気があったが、タケルの先輩にあたり、仕事を教える立場なのかしっかりしている態度を意識して取っていた。
 多恵子とケムヨに気を遣い、他に手伝える事があれば遠慮なく言ってくれという言葉を忘れずに添えて箱を床に下ろした。
 ケムヨは清水に礼をすると相手も律儀ににっこりと笑みを返して応えている。
 多恵子はその余裕の態度が闘争心を燃やさせ、よそ者のケムヨに自分の場所を荒らされたくないようにきつく睨んでいた。
 それは精一杯の嫌がらせにとれた。この女は自分に敵意を持っている。それが確認できただけでも良かったとケムヨは前向きになる。
 清水も女同士のやり取りが見えたのか、苦笑いになっていた。だが、ここは多恵子の味方だと知らせたかったのか、清水は多恵子の肩にポンと手を乗せて励ましている。
 多恵子はそれでハッとして、清水の顔をも見ずにコンピューターの画面を見入り、指先を動かした。
 清水は悟って何事もなかったように静かに去っていった。
 ケムヨもコンピューターの画面に向かい、早速アンケートを見つめて手を動かした。
 説明など聞かなくても何をすればいいのか一瞬で理解する。
 その仕事振りは多恵子よりも数倍早く、そして誰よりも把握しているかのようにこなして行く。
 多恵子は隣でその作業を見せられて、心臓を叩かれたようにショックを受け悔しい気持ちがにじみ出る。
 だがどんなに多恵子が頑張ってもケムヨの方が断然上だった。
 さらにケムヨは誰からも指示を受けていないのに、グラフ作成や男女の比率、そして年代ごとに結果をまとめていく。
 いずれそれらがいると分かって作っていた。
「ちょっと、そんなことしろって課長は言ってなかったわよ」
「でも、いずれ必要になることですので、月曜日の朝の会議に役立つはずです」
「ちょっと待ってよ、勝手にそんなこと決めないでよ。そんなことされたら、これから仕事増やされるじゃない」
 ケムヨは静かに多恵子に振り向き、そして優しく伝える。
「多恵子さんは正社員になりたいと思ったことないですか?」
「えっ、そりゃできたらそうなりたいわよ」
「だったら、自分をアピールできることを見せ付けた方がいいですよ。会社は頑張る人が欲しいですから。それにこの会社はしっかりとそういうところを評価すると思います」
「何よ、パートの癖にえらっそうに言わないで」
「私はそんなつもりじゃないのですが、このアンケートを見て何がこの会社に必要か考えただけです。だから多恵子さんが仕事に対して積極的じゃなかったので正社員を目指していらっしゃらないのかなと疑問に思っただけなんですが」
「そんなことあなたに関係ないでしょ」
「大変失礼しました」
 それだけ言うと、ケムヨは仕事の続きに戻った。
 その後、二人の間では全く会話がされずに静かに時間が過ぎていく。

 大体が仕上がったところを見計らい、吉永課長がケムヨの様子を伺いに来た。
 自分が思ってた以上に、ケムヨの仕事は速くそして指示せぬことまできっちりと済ましていたことに驚きを隠せない。
「課長、月曜日の会議にはこちらの資料が使えると思います。それと、この結果から行きますと、商品に対して工夫すべき箇所がみつかりました。その点も気づいたことをこちらにまとめましたのでご参考になさって下さい」
「あっ、ああ……」
「それでは私はこれで」
 ケムヨは立ち上がり、そして深々と一礼をして、その場を去っていった。
 吉永も多恵子も何も言えず去って行くケムヨの後姿を口を半開きにしてじっとみていた。
 部屋の隅で、タケルが肩を震わして笑っている。ケムヨがやり込めている姿が爽快だった。
「姐御、かっこいい」
 小さく呟いていた。

 かつてケムヨが翔と働いてたとき、こんなことは日常茶飯事だった。
 少しでも他の者達と差をつけるには、アイデアと先を読み取る力が常に必要だった。
 そして誰に命令されるわけでもなく、会社の利益を考えたら何を自分がどうすべきか面白いほど分かってくる。
 そんな習慣が身についているケムヨにはこんなことは朝飯前だった。
 以前はプロジェクトの中心にいて、重要ポジションに身を置いていた。働くのが楽しいと思えたときでもあった。
 時間が経てば、人事異動や新入社員そして退職者で入れ替わってしまい過去のケムヨの存在など忘れられるというものだった。
 その点、専務の須賀譲は古くからケムヨを知る人物であり、それを忘れてはいない唯一の人物でもある。
 引き止めた理由はそこにあった訳だが、ケムヨがこの会社に居る限りケムヨの居るべき場所を常に留保しているというものだった。
 ケムヨはこの会社には特別な存在である。
 それを知られずにパートという雑用係をしているが、それは仮の姿という事だった。
 ケムヨがその気になればいつでもこの会社の重要クラスの社員となり、身分を保証されている。
 だからこそ、ケムヨは他の者とは立場が違い追い詰められる切羽詰った感情が湧いてこない。
 ケムヨはこの会社に必要とされている人間だった。
 世の中は不公平。
 ケムヨがその言葉を口癖にするのは自分の置かれている立場が恵まれていることを充分に知っているからであった。
 それを喜んで良いことなのか、ケムヨは常に自分の立場に葛藤している。
 そしてそこに人には言えない自分の本当の姿もまた爆弾を抱えるように秘密にしなければならないことも含まれていた。
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