第五章


 二人がケムヨの家の前に戻ってくると、プリンセスはちょこんと門の端で飾り物のように座っていた。
 暗闇でも白い毛の部分がぼやっと浮き出て見え、じっと見つめる目が幻想的に光っている。
 ケムヨと将之が近づくと体に力が入って立ち上がり、いつでも逃げられる体制になったが、将之が手に持っていた煮干を前に差し出すと、逃げかけていた体の重心が変わった。
 ケムヨは一定の距離を置いて立ち止まり、将之は腰を低くしながらそっとプリンセスに近づく。
 餌が近づいてくると鼻を突き出すが体はまだ逃げ腰だった。
 将之はどこまで接近できるか、駆け引きをするようにゆっくりと徐々に距離を詰めていく。
 そして手を伸ばして届くギリギリのところまで近づけると将之は腰を下ろした。
 煮干を突き出しながら、プリンセスがその匂いを嗅いでいるうちに少しずつ手を引っ込めて行く。
 プリンセスは首を伸ばすが、それ以上伸びないといつしか前に進んだ。
 一歩近づく。
 そしてぱくっと将之の手から餌を奪った。
 だが、逃げようとせずうずくまってその場で食べだした。
 捕まえることもできるような瞬間だったが、将之は触ることをせずにプリンセスが食べているのを最後までじっと見つめていた。
 食べ終わったときプリンセスが顔を上げる。
 「もうないのか?」と催促するような顔だった。
 将之はポケットからもう一つ取り出してそれを目の前に置いてやった。
 匂いを嗅いで確かめようとせずにすぐに食いつき、時折咀嚼しているときにニャンニャンと声が漏れていた。
 先ほどよりも少しリラックスして食べている。
 この時も将之は何もせずにじっと見つめているだけだった。
 そうしてプリンセスが食べ終わると「美味かったか?」と声を掛けてやった。
 プリンセスは何度も口の周りを舐め回して、じっと将之を見つめている。
 将之がそっと手を前に差し出すと、匂いを嗅いでぺロッと指先を舐めた。
 将之の方がぴくっとしてびっくりしたが、プリンセスは余裕を持った目つきでじっと将之を見つめ、そしてくるりと向きを変えゆっくりと歩いていった。
 立ち止まって一度後ろを振り向くとその後はすばやい動きで何かに飛び乗り、そして猫にしか知らない道があるかのようにすっと姿を消した。
「一歩近づいたね」
 一通り見ていたケムヨが声を掛け、将之に近づく。
 将之は立ち上がりながら、まだプリンセスが去っていった方向を見ていた。
「ああ、警戒心が解かれていっているようだ。このままの調子で行けば俺に懐いてくれるだろうか」
「きっと懐くでしょう」
「そうか。じゃあもっと懐いてもらえるように明日はまた俺の変わりに餌やり頼む。明日は実家に顔出さないといけないんだ」
「なんで私が。早く捕まえて持っていってよ。もう触れるんじゃないの? プリンセスもそろそろそれを期待してるかもよ」
「そう思うかい?」
 将之は微笑んだかと思うと、おもむろにケムヨの腰に手を回し引き寄せた。
「ちょ、ちょっと何よ」 
 ケムヨは強引に引き寄せられて驚きのあまり動きを封じられてしまった。
「君も期待しているかい?」
 将之の顔がまじかに迫ってくる。ケムヨの表情は強張り焦りが生じた。
 このままではキスをされてしまうというとき、寸前で将之の動きが止まった。
 お互いまじかで見つめ合っていたが将之が思い立ったように声を出す。
「やっぱり餃子食べた後はダメだな」
「はっ? ちょっと、匂うってでも言うの?」
 ケムヨは無意識に将之の顔を掌で押さえつけて、押しのけた。なんだか腹が立つ。
 将之はその拍子にケムヨを引き寄せていた腕を解き放し、ケムヨは将之を捨て去るようにすっと離れて門を開けて中に入っていった。
「今日はとても楽しかった。ありがとう。でも最後でぶち壊し」
 つっけんどんに語っていた。
「それって、キスをしなかったことに対してがっかりしたってこと?」
「違う! 無理やり迫ったことに決まってるじゃない! 餃子のお陰で助かったわよ。餃子には感謝に決まってるでしょ。餃子食べてよかった」
 将之はクスクスと笑っていた。
 そしてケムヨはドアを開けて中に入っていく。
 その後ろ越しに将之は声を掛けた。
「ケムヨ。今日は楽しかった。ありがとうな。今度は君がもっと心を許したときに」
 バタンとドアが閉まる音が闇の中で轟いた。
 将之の身が縮まる。
「だからまだ早いんだよ。慌てずにゆっくりいくしかないじゃないか。プリンセスにもケムヨにも」
 将之は夜空を見上げ星を探す。
「星の光もここへ届くまで時間がかかってるんだからな」
 餃子のせいにしてみたが、将之は無理強いはしたくなかった。
 この時も痛感する。
 もしかしたらケムヨは自分とは釣り合わないのではないだろうか。
 経験上、将之が優しく声を掛け、デートに誘えば大概の女は簡単に落ちていった。
 だがケムヨは全く違う。
 デートだと言ってもそれを認めず、対等に付き合おうとする。
 自分が楽しかったからと感謝の意を表すように食事を奢り、また迷惑を掛けないようにと気を遣っているようでもある。
 それはケムヨが年上であり、そして将之のことを男として見ていないからかもしれない。
 28歳の女なら結婚に焦り、自分のような好意を寄せる男が寄って来たら拒まないと思っていたのは、ただの自信過剰でケムヨを蔑んで見ていた証拠なのだろうか。
 『恋人としては私には釣り合わない』
 そういえば初めて会ったときにすでに言われていた。
 それが頭によぎったので、それを誤魔化すのに餃子を使ったが、あの時自分から無理やりキスをするよりもケムヨにその気になって欲しかった。
 もしかしたらケムヨの気持ちが自分に向かっているのではと期待していた。
 それくらいこの日のデートは将之も楽しんでいた。
 将之は静かにケムヨの家を後にして、少し離れて停めてあった車に乗って去っていく。
 その時ケムヨが窓から外を覗いていたことに気がついてなかった。
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