第五章


 のどの痛みは話すのも億劫になって気分を滅入らす。
 普段から人と話さず極力人と会話することがないケムヨは、元々暗い人間だと思われているので体調が悪くとも誰も気に留めない。
 だがこの日は輪をかけて暗くなっていた。
 重要な書類がゴミ箱に捨てられていたのを知らずとは言え、自分の失敗で大変なことになったと思うと拍車をかけて気分が落ち込んでいくのだった。
 気を引き締めていつも以上に仕事に取り組まなければと思っていたが、また一つ問題がケムヨに降りかかる。
 社員のお局的存在でもある主任の園田睦子に突然名前を呼ばれた。
 ケムヨより年上だが、主任という役職を与えられてるために普段から話し方がきつくケムヨがパートということで見下す態度を取る傾向がたまにある。
 このときもケムヨが振り返ると冷たい眼差しを向けて手招きをされた。
 呼ばれるまま一緒に歩き出せば、給湯室に連れて行かれた。
 そこで見た光景にケムヨは驚いてしまう。
 朝掃除したはずがめちゃくちゃに荒らされていた。
 お茶っ葉が床にぶちまけられ湯飲みも数個割れている。
 その側のバケツには水が張られ、その中に雑巾と急須が一緒に漬け込まれ水が汚く濁っていた。
「なぜこんなことに」
 ケムヨはすぐさま片付けに入ったが、側に居た園田睦美は冷ややかに言う。
「もしかして八つ当たったの?」
 朝の出来事を見ていたので、ケムヨが腹を立ててそのようなことをしたと思ったらしい。
 給湯室を掃除するのは大体ケムヨの仕事だったからだった。
「そんなことありません」
 しゃがみながら振り向き、ケムヨは答えるが、睦子は疑った目つきを向けていた。
「もうその急須ではお茶は飲みたくないわ。まだ誰も気がついてなかったからよかったけど、最初に見つけたのが私だったことに感謝してよね。上には黙っててあげるけど、失敗して気に入らないのなら仕事辞めたら? どうせパートでしょ。あなたの代わりなら一杯いるんだから」
 はなっからケムヨがやらかしたと思っていなければそんな言葉など出ることはなかっただろう。
 こんな分かりやすい行動をとることの方が普通おかしいと思わないのだろうか。
 ケムヨ自身、疑いがかかるようなこと自ら起こすわけがない。
 ケムヨは何かがおかしいと考え事をしながら片付けていた。
 その時「こほっ」と咳が出るようになり、風邪が体の中で充満していくのがわかった。
 それでも負けないようにと、向かい風に立ち向かうように気力を奮い起こしていた。
 
 昼休みになると、タケルが廊下でケムヨを見つけお決まりのようにまた泣きついてきた。
「姐御、やっぱり僕、吉永課長とは相性悪いです」
「またなんか虐められたの?」
「虐めっていうんでしょうか? なんか僕の態度が悪いとかまた注意されました。取引先の部長さんが僕のアイデアを評価してくれて直接それで商談が決まった んですけど、なぜか課長に通さず上に連絡が入ったので、自分は知らなくて恥をかいたとかって課長が怒るんです。僕ちゃんと報告書出したんですよ。それを見 なかった課長に責任があるのに僕のせいとかいうんです。まるで僕がわざと課長に嫌がらせしてるみたいじゃないですか」
「伝達ミスってところね。でも出した報告書はどこに置いたの?」
「課長の机の上です」
 ケムヨは眉を中央に寄せるように考え事をしていた。
「また課長のお気に入りのコーヒーカップが朝割れてたんです。だから機嫌が悪くて。でも姐御が金曜日に会議用に参考資料を用意してくれたから、それは会議でいい評価もらったらしく、少しは機嫌が持ちこたえてたんですけど、結局はまた僕がぶち壊してしまいました」
「実は私も今日は腑に落ちない失敗をしたのよ」
 ケムヨも同じようにタケルに話をする。
 タケルはそれを聞いて目を丸くした。
「えっ、それはおかしいです。姐御が会社に不利益になることするわけないじゃないですか。それって誰かが姐御の邪魔してるってことですよ」
「だったらタケルも同じかもしれない。身近な人物が邪魔をしている。報告書も誰かに隠されたのかも」
 タケルもはっとした。
「なんでこんなことになるんですか」
「どこかで恨みを買ったってとこね。誰か心当たりはないの?」
「心当たりっていっても」
 廊下の端でこそこそと話していたので、そこに吉永課長がすっと通り過ぎたがふと足を止めて二人を訝しげに見つめた。
 ケムヨは嫌な予感を感じながら、目が合ったので深々と礼をする。
 吉永課長はプイッと前を向くとそのまま歩いて行った。
「タケル、当分私と会わない方がいい。タケルに不利になる」
「どうしてですか?」
「どうしても。この状態が落ち着くまでとにかく私のことは無視をしておいて。タケルは何も心配しなくていいからね」
 ケムヨはタケルをその場に置いて去っていく。
 タケルは命綱を切られたように不安になりながらケムヨを見ていた。

 タケルから離れたのは、ケムヨが吉永課長と不倫相手との密会を二度も見ているため、自分がタケルに告げ口していると思われると判断したからであった。
 今更離れても完全にそう思われていると感じていたが、なんとかしないといけないとケムヨは対策を練るように考えこんだ。
 その時喉の痛みが若干弱まっていることに気がつく。だがその分、鼻がムズムズしてくしゃみが出てきた。
 本格的な風邪の症状が現れてきた。そんな体調の悪いときにまた次の問題が容赦なく襲う。
 午後、部署で社員達が二、三人集まって紙切れを見ながら深刻な顔をしていた。
 ケムヨがそこに顔を出すと、一目散に寄って来る。
「この書類を作ったのはあなたよね」
 ケムヨは躊躇うことなく肯定するが、良く見れば数字の桁が間違っていることに気がついた。
「こ、これはどういうことでしょう」
「ちょっと、どういうことって、こっちが聞きたいわよ。一体どうするの。これで注文してしまったわ。あそこの業者手厳しくてこういうミスをものすごく嫌うのよ。訂正して取引しないって言われたらどうするのよ」
 驚きながらケムヨはその書類を良く見直す。ぱっと見だけではよくわからないが、じっくり見れば最後の数字の0の部分が手書きで付け足されている。これをファックスで流されると手書きの部分の区別などできない。
 ケムヨは明らかに営業妨害だと頭に血が上るほど腹が立ってしまい、一体この中の誰がこんなことをするのかと周りをきつい目で見つめてしまった。
「とにかく私が責任を全てとります。申し訳ございませんでした」
 ここは我慢して頭を下げたが、その書類をもったまま、ケムヨは部屋を出て廊下を走っていった。
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