第六章
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将之が玄関先で靴を履いているとき、側にあった下駄箱にふと手をかける。
その上を見れば猫の餌の袋とそれを入れるボールが置かれてあるのに気がついた。
それを見つめ、益々責任を感じてしまう。
「風邪を引かせたのは俺のせいか」
ドアを開け、外を見ればプリンセスが尻尾を立てて将之が出てくるのを門の向こう側で歓迎していた。
「その尻尾を立てるポーズはおねだりってことか」
門を開けたときに出るギーという錆付いた不快な音が聞こえても、プリンセスはもう逃げなかった。
プリンセスの前にしゃがみこみ、ポケットから袋を取り出した。封を開けると匂いが漏れるのかプリンセスが落ち着きなく動き出し、将之の側に来て頭を将之の体に擦り付けた。
「おっ、もうそこまで慣れてるのか」
袋から中身を取り出しそれを目の前に置けば、喜んで食べだした。
夢中で食べていたので、将之はそっとプリンセスの頭を一撫ぜしてやる。
一瞬頭を上げて将之を見たが、すぐにまた餌を食べだす。
そしてもう一度頭を撫ぜれば、プリンセスは全く動じずにニャンニャンと篭った声を出しながら餌を噛んでは食べていた。
「とうとう触れたか。やっと慣れてくれたんだな」
何度もプリンセスの頭を撫ぜて、将之はベッドで寝ているケムヨのことを考えていた。
「あいつも、今のプリンセスのように俺を信頼してくれてるだろうか? なあどう思う?」
猫に聞いても無駄であるのはわかっていたが、プリンセスが懐いてきたお陰で、ケムヨも同じように自分に心を許しているように思えてならなかった。
『失礼ね、猫と一緒にしないでよ』
ケムヨの声が聞こえてきそうだった。
「だけど、シズさんはケムヨのことお嬢様って呼んでたのはどういうことだろう? ケムヨには謎が多すぎる。ロレックスの高級腕時計も、中が豪華なこの建物も、一緒に住んで妙にケムヨを大切にする管理人達も、なんか不思議さが先に立つ」
将之はゆっくり立ち上がり建物を見つめた。
真相を隠すかのように、日が暮れかけた弱弱しい一日の終わりの光を受けて、その建物は薄汚れて不気味に立っている。
ふーっと息を吹きつけて布で拭けば別の姿が現れそうなくらい、その表面はわざと汚れているようにしか見えなかった。
ケムヨもこの建物と同じようにベールを被っているのではないだろうか。それを取り去れば、ケムヨは充分に聡明で美しい。
ケムヨと接しれば接するほどケムヨに惹かれていく。
きっかけは貴史とのつまらない意地の張り合いのゲームだった。
闘志を燃やされムキになったのは将之の性分だとしても、そこから本当に自分が恋に落ちていってしまった。
逃げる女ほど追いかけたくなる心理が働いたのか、探検家が深い森の中で秘宝を見つけたような気分にさせられる。
気が強い、いや自立してしっかりしてると表現すればいいのだろうか。だが、ガツガツはしていない素朴さもあり、飾らずに自分らしさを保っている。
ずっと出会いたかった女性。
そんなケムヨが、病気になって少なからずも自分にもたれ掛かって頼ってくれたことが将之は素直に嬉しかった。
足元ではプリンセスが頭を摺り寄せてぐるぐると将之の周りを付きまとっていた。
「そろそろうちに来るか?」
そのとき首輪をつけたトラ猫が少し離れたところから将之を見ていた。
プリンセスの友達なのか、プリンセスは将之のことを忘れてその猫の元へ小走りに駆け寄った。
お互いの匂いを嗅ぎ、猫にしかわからないボディランゲージでコミュニケーションしている。その後二匹は寄り添ってどこかへ歩いていった。
その姿は一抹の寂しさを感じさせられた。
「あいつもしかしてオス猫かな」
将之はプリンセスを捕獲していいものか躊躇ってしまう。
当分はこのままでいれば餌をやる理由ができて堂々とケムヨに会いに来れると思うと、もう少し様子を見ることにした。
しかし、プリンセスが餌をやる自分よりもトラ猫にあっさりと着いて行った様子がどうも嫌な気分にされてしまった。
ケムヨがまた離れていくイメージを抱き、プリンセスとケムヨを重ね合わせていた。
『だから、猫と一緒にしないでよ』
また脳内でケムヨの声を再現する。
ケムヨはプリンセスとは違う。
将之は一人でいいように納得して歩き出した。夜空を見つめケムヨの風邪がよくなるように祈りながら──。