第六章


「笑美子お嬢様、もう一日お休みになられたらよろしいのに」
 朝の朝食をテーブルに出しながら、心配ながらも自分の思うようにしてくれないケムヨを前に、シズは少し愚痴っぽく言った。
 身支度を終えたケムヨはテーブルについてコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
 まだ鼻がぐずついて、完全に治ってるわけではないがこれ以上家で寝ているのに飽きて多少無理をしてでも仕事に出かけようとしていたから、シズは気が気でない。
「大丈夫だから。パートの仕事はあまり休みたくないの。今ちょっと大変だから少しでもきっちりしないと、休んでたら何を言われるか」
「何かパートのお仕事でトラブルでもあるんですか?」
「えっ、まあどこにでもそういうことはあるからあまり気にしてない」
「お嬢様とあられる方がそのような仕事についてるなんて、そちらはいい加減に辞められたらいかがですか?」
「シズさん、パートの仕事もとても役立ってるの。下っ端にしか見えてこないことや、会社の仕組みに、社員や派遣たちとの付き合い方など、とても勉強になってるんです」
「それは分かってますが、旦那様の跡取りになられるようなお方が、バカにされていないかとシズはそれが心配で」
「だから大丈夫だって。それに跡取りのことはもう言わないで。私は放棄したいんだから」
「そういう訳にはいきません。旦那様も笑美子お嬢様に継いで欲しいとあれだけ厳しい掟を仕込まれたんですから、その努力が無駄になってしまいます」
「ほんと、いい迷惑だったわ。父が途中で放棄するから幼い私が急遽跡取り候補で教育された。いきなり男達の世界に放り込まれるから恐怖に慄いたわ。お陰で制限が一杯で好きな友達とも遊べなかった。私は放棄したくてもその後がいない」
「元々男がのし上がるような世界ですから、女であるお嬢様には確かに過酷でしたね。でもお婿さんにしっかりした方を迎えて次の跡取りを誕生させたらよろしいんですよ」
「そんな簡単に言われても。私は結婚なんてするつもりないんだけど」
「まだそのようなことを言われて。いえ、何がなんでも結婚してもらいます」
 古い考えが凝り固まるシズは、そういうことには引かず自分の意をケムヨに押し付ける。
 普段から母親代わりのように世話をしてもらい、完璧に仕事をこなすシズには祖父の二の次に少し畏怖する存在である。
 ケムヨはその後はもう何も言わなかった。
「ところで、篠沢さんですけど、昨日は表で猫に餌をやりながらついでに猫と会話していらっしゃいましたが、あの方は私はどのように接してよいのかわかりません」
 シズがぼそっと呟く。
「あいつは適当に無視していいですから」
「それでもあの積極さと甘いマスクはちょっと私は苦手です。今時の若い方にしてはしっかりとされてるし、笑顔で話しかけられたら私もついころっと惚れてしまいそうです」
「えっ、シズさん!」
「いえ、少し大げさでしたけど、それくらい魅力のある方だと思うのですが、お嬢様はどのように思っていらっしゃるのでしょうか」
 シズの本音はケムヨが将之に恋心を持っているのか確かめたいところだった。
「あれはほんとにしつこい男なだけで、仕方がないから友達として付き合ってるけど、それ以上の感情は全くないから安心して下さい」
「ほんとにそうですか? 篠沢さんと会話されているときのお嬢様はなんか生き生きとされて楽しそうなんですけど」
 その時、飲んでいたコーヒーが変なところに入り込み、ケムヨはむせてしまった。
「あら、お嬢様、大丈夫ですか」
「ゲホッ! もうそろそろ行かなくっちゃ」
 苦しそうに息をしながら、ケムヨは立ち上がり上着を羽織る。
 玄関を出れば曇り空でどんよりとした空が広がっていた。やる気がでない天気だったが、気持ちだけは奮い起こしていた。
 そして会社に出勤したとき、また一騒動起こっていた。

 留美がケムヨを見るなり側に走り寄ってきた。
「おはようございます」
 ケムヨが挨拶すると、留美はケムヨを引っ張って部屋の隅に押しやった。
「どうしたの留美ちゃん、何かあったの?」
 留美は辺りを見回し、気を遣うように小声で話した。
「ケムヨさん、昨日ね、ケムヨさん宛にクレームの電話が掛かってきたの」
「えっ? 私にクレームの電話? どういうこと?」
「電話の受け答えが悪いとかだったんだけど、たまたまその電話を私が取って対応してなんとか機嫌を直してもらったのでそれは済んだことになってるから安心して下さい」
「でも、なぜ私宛にそのような電話が?」
「それなんです。ケムヨさんは手伝いでたまに電話取ることはあっても内線だし、問い合わせや外からの電話は大体が派遣の仕事でしょ。それにケムヨさんは暗いけど対応が悪いってことは全くないのは私もわかってます。だから……」
 留美はそこで黙り込んだ。
「どうしたの? 留美ちゃん」
「ケムヨさん、一昨日ちょっとミスを犯したそうですが、私は大切な書類を間違って捨てたあの一件しか知らなかったんです。でも優香が注文ミスや給湯室でケムヨさんが暴れたとか言い出して……」
「だから何が言いたいの?」
「その、勝手な憶測なんですけど、もしかしたらケムヨさんに誰かが嫌がらせしてるんじゃないかって思って。だってケムヨさんは今までそんなミスを犯したことないからなんか不自然で」
 留美はまた辺りを見回し、何かを怖がるように怯えていた。
 ケムヨも身の覚えのない失敗だったので、誰かが邪魔をしているのではと思っていたが、それは口には出さなかった。
 だが留美は何か知っているような気まずい視線をケムヨに向けた。
「ここだけの話にしてもらえますか。実は私思うに、優香がケムヨさんに嫌がらせしてるんじゃないかってそんな気がして」
 留美は首を垂れて顔を塞いでしまった。
「留美ちゃん…… でもそれは証拠もないし人を疑っちゃいけないわ」
 ケムヨもどう受け答えして良いのか分からず無難な言い方になってしまった。
「でも、合コンに参加できなかったことで、優香なんかおかしくなって、それにケムヨさんが合コンで出会った将之さんといい仲になってるのを知って嫉妬して るんじゃないかって私思うんです。それで八つ当たりみたいになってケムヨさんを虐めてるんじゃないかって思えてきて。だって、ケムヨさんのミスのこと詳し く知っていたし、電話の応答も優香ならケムヨさんの名前を語って足を引っ張るようなことも出来るし、なんか私もおかしいとしか思えなくて」
「留美ちゃん、ちょっと待って。私のこと心配してくれてるからついそう思ってしまったんだね。ありがとうね。でもやっぱり証拠もなく疑っちゃまずいわ。私ちゃんと気をつけてるから、心配しないで」
「ケムヨさん、どうしよう。私もこんなこと思いたくないんです。だけどあまりにも不自然だから。このままだといつか仕事にも支障をきたして大事になったらと思うと怖くて。優香も友達だし変な方向に行って欲しくないんです」
「わかったわ。大丈夫。私がなんとかするから。とにかくこのことはまだ留美ちゃんの胸の中に収めといて。だけど話してくれてありがとうね。私も気をつけるわ」
「はい」
 その時お局の園田睦子が二人に注意をする。
「やること一杯溜まってるわよ。話してる暇があれば仕事しなさい」
 二人は「すみません」と頭を下げる。
 留美は言いたいことをとにかく言ったので、その後は元気なく自分の席に向かった。
 ケムヨは、どうすべきか考えてると鼻水が垂れそうになって大雑把に手で鼻の下を擦っていた。
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