第八章
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今度は将之がドアベルを押した。
その直後将之はカチコチに緊張している。
喉の調子を整えるように何度も唾を飲み込み、その行為はどのように声を出せば良いのかすっかり忘れて焦っているみたいだった。
一方ケムヨは何かいい忘れてまたハルトが戻ってきたのかと思い、油断して軽くドアを開けてしまう。
そこに将之が居たことで、かなり驚いた顔をした。
将之も、すぐにケムヨが出てきたので慌ててしまった。
その反動で声も出ず、お互い沈黙で驚いた感情だけ飛び出したまま見詰め合っていた。
「一体なんの用?」
ケムヨが中々話さない将之に用件を尋ねる。
その理由は分かっていても前日に起こったことは忘れたフリを試みる。
「あの、その」
言いたい事が上手く纏まらない。前夜の様に失敗したくないと思う気持ちが強く出て、却ってそれが妨げとなって事がスムーズに行かない。
ケムヨは落ち着きを払い、そして優しく声を掛けた。
そこには自分が年上という大人な部分を見せ付けたみたいだった。
「もう気にしてないから、隙を見せた私も悪かったと思ってる。だから将之も気にしないで。それで終わりってことでいいじゃない」
子ども扱いされ、さらに終わりという言葉が将之を逆撫でしてしまう。
「なんだよ。俺の話も聞けよ。勝手に終わらせるな。それに俺は謝りにきたんじゃない」
つい興奮して自分の予想とは反対の態度をとってしまった。
「じゃあ、何しに来たのよ」
将之の逆切れにケムヨも少しムッとした。
「俺は、自分の覚悟を決めて来たんだ。ケムヨが抱えている問題を少しでも軽く、いや、取り除いてやりたい」
「私の問題って何よ。将之に一体何ができるというの?」
将之は真剣な目つきを向けた。
「俺、ケムヨをそこから守ってやる。だからだから…… 俺と一緒に逃げよう」
「えっ? 逃げる? 将之と一緒に?」
「ああ、後は俺が面倒見てやる。苦しいものわざわざ抱えたって仕方がないじゃないか。それなら全てを放棄しろよ」
ケムヨには考えてもみなかったことだった。
まさか将之からそんな言葉を言われるとは心底驚いた。
「将之、それは出来ない。私にも色々と責任があるし、自分が苦しいからというだけで私には全てを捨てられないし、逃げるなんて馬鹿げてる。一体どうしたの?」
ケムヨはなんだか混乱してきた。
だが将之は何とか説得しようと自分の考えを押し付けようとする。
「何を怖がっているんだ。もっと自分のこと考えろよ。俺を信用しろよ。俺がケムヨを救い出してやるって言っただろ」
「そんな…… あのとき救うって言い切ったからって無意味に自棄になられても困る。例えもし将之が言うように救われたとしてもその後私はどうするのよ。金魚すくいみたいに、取った金魚をその辺の水槽に入れておくって訳にはいかないのよ」
「だから、俺が面倒みるっていってるじゃないか」
「それじゃ私はまるで将之が捕獲しようとしている猫のプリンセスじゃないの。あなたにずっと飼われろというの?」
ここで将之の気持ちは凝縮されて人生の岐路ともなる言葉が突然浮かぶ。
「何を言ってるんだよ。俺はその、ケムヨと……」
将之がそこまでいいかけたとき、門の前でタクシーが止まった。
それが水を差したように二人の会話を止めてしまった。そのタクシーに必然と視線が移り、じっと見つめる。
そしてタクシーから出てきた人物を見てケムヨは凍り付いてしまった。