第八章
7
タクシーは乗客を降ろすとすぐにどこかへ走り去ってしまった。
そこには降ろされた客が大地に根を下ろすように立ち、ケムヨと将之をじっと見ている。
「誰だよ、アイツ。俺達のことじっとみて。ケムヨの知り合いか?」
ケムヨは将之の質問など全く耳に入っていない。
目の前にいる人物に気を取られて、麻痺した状態だった。
「おい、ケムヨ、大丈夫か」
「あっ、あ、あ……」
小さくケムヨから声が漏れている。酸素欠乏症になったくらいに苦しそうに喘いでいる様子だった。
タクシーから降りた人物は、まどろんだ瞳でケムヨをじっと見つめている。
そして遠慮がちに声を発した。
「久し振りだな、ケムヨ。元気だったか?」
「翔……」
名前を言うだけで精一杯だった。ケムヨの鼓動は恐ろしく早く打っている。それは痛いほど心臓を痛めつけた。
息が荒くなり、ケムヨは倒れそうになる一歩手前でフラフラとしていた。
「一体あいつ誰だよ?」
将之は訝しげに翔を見つめていた。
翔は太陽の日差しが強い地域にいたのか、日に焼けて肌が以前よりも浅黒くなっていた。
髪も染めている程ではないが、現地の水が合わなかったように色が抜けて毛先が茶色くなっている。
3年前と著しく変わっていないが、その分それ相応の年月が刻み込まれて貫禄がついた男らしい顔つきになっていた。
30歳となったことで、老けた訳ではなく成熟された大人な雰囲気が漂っている。
渋みが出てきたかっこよさがにじみ出ていた。
あまりにも突然のことで、ケムヨは動けず、声も出ない。
どういう態度を取ればいいのかも分からない。このままドアを閉めて家の中に逃げ込みたい気持ちで一杯なのに、目はしっかりと翔を捉えている。
まるで夢でも見ているように、その光景はあまりにも現実離れしているようだった。
翔は優しくケムヨを見つめ、そして門に手を掛けて開く。
錆付いた不快な音に少し眉を顰めながらも、そのまま突き進むように中に入って来た。
将之が居てもお構いなしにゆっくりとケムヨに近づく。
将之は大切な話の腰をすっかり折られ、しかもケムヨがすっきりと将之の存在を忘れ、後から来た人物に気をとられている事に腹が立ってきた。
その怒りは翔に向かう。
「ちょっと、今立て込んだ話をしているんだけど」
空気を読めと言いたげに将之は翔に話しかけたが、翔も将之のことなど視界に入ってない。
どちらからもすっかり居ないものとされて、将之は我慢ならなくなった。
しかし、どうしても二人の間に入れそうもない。
成り行きを見るように将之は数歩さがってしまった。いや、その雰囲気がそうせざるを得なかった
「ケムヨ、会いたかった」
翔の言葉でケムヨはビクッとしたが、将之もはっとした。もうそれがどういう男かも分かってくる。
ケムヨは声を失ったように黙り込んでいた。それをいいことに翔は話続けた。
「わかってる。今更どの面提げて来たんだっていうくらい。だけどケムヨに会いたくてたまらなかった。もう一度話し合いたかった」
ケムヨの脳裏には浮気現場を見てしまったときの記憶が蘇った。
あの時の辛さが蘇ると、それが原動力となり、ケムヨは突然家の中に入ってドアを閉めてしまった。
「ケムヨ、待ってくれ。もう一度チャンスをくれないか」
家の中からくぐもった叫ぶ声が聞こえてきた。
「お願い、帰って。放っておいて」
「おい、ケムヨ! 俺はどうなるんだよ。俺まだ肝心なこと話してないんだぞ。俺は中に入れてくれよ」
将之も予期せぬ展開に驚き、何度もドアを叩いた。
「二人とも帰って!」
「なんでこうなるんだよ」
将之は突然邪魔をした目の前の男を睨んだ。
「ちょっと、あんた、ケムヨに何をしたんだ。あんたが来たせいで俺までとばっちり受けてしまったじゃないか」
「そういう、あんたは一体ここで何をしていたんだ? 押し売りのセールスマンなら他を当たってくれ」
将之が敵意を見せると翔も同じように敵意を見せた。
二人はお互いがケムヨに好意を持ってると感じ取り、すでにライバル意識が自然と芽生えていた。
「あんた見たところ、ケムヨに嫌われてる感じだな」
将之がそういえば、翔も負けてはいなかった。
「そういうあんたも、気にされないほど無視されていたけど」
初対面なのにすでにどちらもムカつく相手になってしまっていた。
そしてドアの前で男の面子をかけた二人の睨み合いは暫く続いていた。