第九章


「もう大丈夫だ」
 翔が優しく微笑んだ姿は、当時付き合っていた頃となんら変わっていない自然な振る舞いだった。
 ケムヨは翔の表情を見つめていると嫌な部分を排除した時の感情だけが蘇ってしまう。
 お互い何も変わらず、ずっとあのままの状態じゃないだろうかと勘違いしてしまいそうで、ケムヨは「ありがとう」と呟いてすぐに目を逸らした。
 自分の気持ちを悟られないためにも、将之の存在を利用して話を変えようとする。
「だけど、将之がなぜここにいるのよ」
 将之は気持ちを抑えるのに必死で言葉など到底発する余裕がない。
 その状態で更に翔を見れば、余裕のある見下ろす態度を見せられ、自分が手も足もでない子供のようで悔しくてたまらなかった。
 言葉よりも無条件に殴り飛ばしてやりたい感情に支配されてそれを抑えるのに必死だった。
 将之の心を見透かしているのか翔は微かに鼻で笑う。
 その時、シズは開いているドアから腰が引けたように覗き込んで声を掛けた。
 そんな態度になったのも一通り見てはいけないものを見てしまったと思っていたのかもしれない。
 だから将之の立場をある程度理解した助け舟といった感じになっていた。
「あ、あの、私がお茶にお誘いしたんです。宜しければそちらの方もご一緒に……」
 シズが居た事でケムヨは我に返り、慌てて翔の紹介をした。
 翔はシズの存在がどういうものか全く気にせずに挨拶をする。
 シズの方は大体なんとなく翔がどういう人物であるのか気がついているみたいだった。
 シズはお茶の用意にその場を去ると、部屋の中はとたんに静まり返り、そこでは三角関係の構図が目に見えるようにケムヨを挟んで二人の男が熱く火花を散らしていた。
「しかし、この男はなかなかしつこい奴みたいだな。とことん邪魔をしてくれる」
 翔が嫌悪感を突きつけるように将之を睥睨する。
「最初に邪魔をしてきたのはあんたじゃないか。俺だってケムヨと大事な話があったんだ」
 将之も負けてはいない。この時とばかりに怒りをぶつける。
「二人ともちょっと待ってよ。私が一番混乱してるのよ。もっと落ち着いてくれない? もし私のことでいがみ合ってるんだったらとにかく問題は一つってこと。私はどちらとも付き合いません。以上!」
 ケムヨは収拾させようと、雷を突き刺すようにスパッと言い切った。
「だからもう一度話し合おう」
 翔と将之が同じ台詞を同時に言ってしまう。
 台詞が被って、はもってしまったことに二人は顔を見合わせて表情を強張らせていた。
 そして同時に二人の頭に浮かんだのは『こいつさえいなければ』という言葉だった。
「ケムヨ、俺、本当に大事な話があるんだ」
 懇願するような瞳をぶつけ将之はその話の重要性を訴える。
「何を言ってるんだ。ケムヨと付き合っているなんていうのなら君は誤解している。間違いだったってさっきも言われただろう」
 将之を邪魔するように翔が答えていた。
「だから貴様には関係ない。口を挟まないで欲しい」
「お前こそ鬱陶しいんだよ」
 どうしても二人はいがみ合う。
 最後には自分が一番ケムヨのことを知っているんだと言いたいがために、また同じ言葉を同時に吐いていた。
「ケムヨのこと何も知らないくせに」
 これにはケムヨが気分を害した。
「ちょっと待ってよ。いい加減にしてくれない。なんでこんな展開になるのよ。とにかく二人とももう帰って!」
 二人を押して部屋から追い出す。
「ケムヨ、だからとても大切な話なんだ」
 将之が言う。
「俺はもう一度君とやり直したいんだ」
 翔も言った。
 それでも益々ややこしくなるこの状況にケムヨはイライラしてしまい、二人と話せるような気分ではない。
 将之と過ごして甘えてしまっていた自分。そこに昔恋焦がれた恋人が現れやり直したいと言う。心が揺れ動き冷静に二人と話し合えず、ケムヨはどちらも拒否するしかできない。
 おまけに自分のことしか考えられない二人の対立を見ると身勝手過ぎて腹が立ってしまうのだった。
 未練がましくケムヨの名前を叫ぶ二人をなんとか追い出しドアを閉めた。

 これではまた振り出しに戻ったと、二人はやるせなくなるが、隣にいる存在と目が合うと一気に怒りで血が沸騰する。
 しかしここで殴り合いの喧嘩をすることも出来ず、お互い「ふんっ!」と首を振っていた。
「とにかく今日のところは帰るしかないな」
 翔が仕方なく呟く。
「ああ、帰れ帰れ」
「何を言ってる、お前もだよ」
 翔は将之の腕を取り玄関に引っ張っていく。
「おい、離せよ。俺はシズさんにお茶に呼ばれてだな……」
 将之がしつこく居残ろうとしていると悟った翔は声を発した。
「どうもお邪魔さまでした。俺達帰りますんで折角ですがお茶は遠慮します」
 と特に俺達のところを強調した。
 奥からシズが心配そうに出てきて二人の様子を伺う。
「どうも大変お騒がせしてすみませんでした」
 翔が頭を下げ、そして将之の頭を上から押さえつけ同じように下げさした。
「おい、何するんだよ」
「さあ、帰るぞ」
 翔が有無も言わさずそういい続けるものだから、シズもそれに従うしかない。
「そうですか、残念ですけど」
 そこで将之も一人だけ居残る術を奪われ、翔を睨みつつ靴を渋々と履く。
「あっ、篠沢さん」
 シズが声を掛けると将之は期待して振り向く。
「あちらの紙袋をお忘れなく」
 玄関に無造作に置き去りにされていた紙袋を示す。
 将之はそうだったとそれを手に取り、諦めて屋敷を後にした。
 その後を翔が続き、それを確認するように将之は振り返る。
 ドアを閉め外に出たとたん日差しのせいで、顔のメリハリにくっきりと影も落ち、そのせいか翔の顔つきが突然邪悪なものに変化したように将之は感じた。
 翔は無言で将之を睨みつける。
 さっきケムヨの前で見せていた態度とは違う雰囲気が漂っていた。
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