第九章


「お前、シノザワとかいったな。ケムヨはマサユキって呼んでたみたいだが。どうやってケムヨに出会ったのか知らないけど、お前は何か企んでるんじゃないのか?」
 翔は冷血漢と化したかのように突然冷たさが表面に現れる。
「どういう意味だよ」
「いや、ケムヨは普通の女じゃないからさ。お前には不釣合いだ」
 ケムヨのことを知り尽くしているとも取れる発言に将之は引っかかった。
「そっちこそ、ケムヨの何を知ってるっていうんだ。本当のことは何も知らないくせに」
 将之は極道についての秘密を知らないと意味したつもりだった。
 だが翔は不敵な笑みを浮かべる。
「本当のこと? お前が意味する本当のこととは何か知らないが、少なくとも俺はお前よりもケムヨを知っていることだけは忘れるなよ」
 元恋人だったことをまたここでも思い知らされ、翔が何を言いたいのかが分かると将之は体に力が入ってしまった。
「その割にはあっさりと浮気したみたいだな」
 悔し紛れでもあったが、それは翔の一番気に障る話題には変わりなかった。
 事実とばかりに翔は言葉に詰まって何も言えなくなる。
 将之は少しはやりこめたと思ったが、翔はすぐに気持ちを切り替えてしまいニヒルな笑みを浮かべた。
 まだまだ将之の勝利には程遠い。
「まあいい、それは事実だ。そんなこといい訳しても何にもならない。だから俺は謝り続けるしかない。俺は許してもらえると信じてるよ。それに、一度もケム ヨと心通わすようなことも味わってないお前よりは有利だと思う。ケムヨと離れていた三年間、ケムヨも俺のこと忘れてなかったみたいだからな」
 将之は自分の方が不利に思えてくる。
 確かにケムヨは一人で頑張ろうとして結婚しないと言い切っていた。
 その裏を返すなら、翔が忘れられなくて他の男など考えられないという意味にもなる。
 将之はまじまじと翔を見詰めた。
 頭の回転が速そうに、物事を見極めるシャープな目つきがどこかずる賢くも見える。将之の目から見れば、腹の中では何を考えているのかわからない信用置けない雰囲気がたっぷりとしみこんでいる。
 有能なビジネスマンにありがちな装いだった。
 将之もそんなフリをしていたが、自分の本来の姿ではなくいつも心の中では苦しく思うところがあった。
 そこには嫌々ながらも避けられない事情があり、葛藤しながらも負けずに無理をしてここまで上り詰めてきた。
 だがこの男は権力を握ることを当たり前のように感じ、本能のままそれに向かっている。
 どっしりとしたその態度に将之は敵わないものを感じてしまった。
 だが、ここで負ける訳にはいかない。
 少なくとも将之はケムヨのあの事情を知っている。翔もまたそれを知っているのか気になりだした。
「なんだい、さっきらからじろじろ見て」
「あんた、いや、翔…… さんとか言ったな。ケムヨのこと全て本当に分かっているのか? ケムヨにどんな事情があるのか知ってるのか?」
「ん? 何が言いたいんだ?」
「この屋敷の中を見て、不思議に思わないのか? 表はアレだけど中は豪華だ。ケムヨはシズさんからお嬢様と呼ばれている。それはなぜだか知っているのかと訊いてるんだ」
「なんだ、そのことか。その分じゃあんたは気がついているみたいだな。ああ、もちろん知ってるさ。そうかあんたはそれが目的で近づいているってことなんだな」
「違う、そんなもの全く必要ない。却ってそこから逃げ出してケムヨを救いたいくらいだ」
「はっ? 何を言ってるんだ。逃げ出す? バカじゃないのか。俺は真っ向からそれを手に入れたいと思うけどな」
「しかし、アレだぞ。あんな大それたもの……」
「あのな、俺はそれに似合うだけのものを持ってると思ってるよ」
 翔はふてぶてしく笑う。腹黒いものを持ったような表情だった。この男になら極道が務まるといった貫禄さまでもが見える。
 将之はまた負けたと思ってしまった。
 しかし、翔がケムヨの正体に気がついても寄りを戻したいとは意外だった。だがよく考えれば、こういう男だからこそ暗黒街で影の支配者になるにはぴったりに思えた。
「翔さんはいつからケムヨの正体について知ってたんだ」
「ケムヨと別れて、そして海外転勤してすぐの頃だった。かなり後悔したよ。だから実績を上げてすぐに戻ってこられるように努力した。だが三年もかかったん だよ。やっと今日、日本に帰ってこられて、その足でケムヨに会いにきたんだ。どれだけこの日を待ちわびたかあんたにはわからないだろう。それを邪魔しやがって」
「なんだよ、それってケムヨの正体を知っていたら浮気せずに別れなかったってことなのか」
「さあ、そこまで詳しく言うつもりはない。あの時は俺も今のあんたのように若かったってことだ。とにかく俺の邪魔は二度とするな」
 翔はこれ以上の会話は無駄だと去ろうとすると、足元にいつの間にかプリンセスがやってきていた。
「なんだ、三毛猫じゃないか」
 翔は手を差し伸べると、プリンセスはすっかり人間に慣れていたので餌をもらえると思い簡単に寄って来てしまう。
 なんなく翔にあっさりと頭を撫でてもらい、喉をゴロゴロ鳴らしていた。
「おい、プリンセス、簡単にそいつに懐くなよ。俺の時は時間掛かったのに」
「プリンセス? すごい名前をつけてるんだな」
 翔はプリンセスが喜ぶままに撫ぜまくる。その手も手馴れたものだった。
 全てのものを手懐ける姿を見せられた様で将之はどうしても敗北感が拭えない。
 将之は持っていた餌を取り出して、それを見せることでプリンセスの気を引けたが、それが姑息な手に見えて仕方がなかった。
「お前の猫なのか?」
 プリンセスに餌をやる将之に翔は問う。
「いずれそうなる。今飼いならす準備中だ」
「そっか。だが、ケムヨにはその手は通じなさそうだな」
 翔は嘲笑ってその場を去っていった。
 将之は後味悪く、完全な自分の負けを認めていた。
 だが、突然紙袋のことを思い出し、そこに入っているワインを思い出すと、気を取り戻した。
(いや、ケムヨのお父さんに会えたことは俺にはプラスだった。俺やらなくっちゃ)
 プリンセスの頭を撫ぜ、将之はこの先のことを考えていた。
 やるべきことは一つ。
 そう思うと、体から力が湧き出て久し振りにずっと封印していた気持ちに火がついたようだった。
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