第九章
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「修二さんって将之さんと全くタイプが違うね。でもお互い思いやっていい兄弟って感じがする」
将之たちと別れた後、混み合う駅のコンコースの中で夏生が言った。
切符売り場で財布を出しながら、ケムヨはカラオケで将之と一緒に歌ったことを思い出していた。
将之はイベントに関係する仕事をしているだけに場の盛り上げ方を良く知っていた。
修二も好きな分野の曲が飛び出したことで囃し立てると、夏生も一緒になって騒ぎ出し、最初は恥ずかしいと思いながらも、ケムヨも最後はヤケクソで力強く歌ってしまった。
それから何かが弾け飛んだ。
トランス状態になるというのか、別物の自分が入り込んでその場限りだけ特別にはしゃいでしまった。
「将之さんって、ケムヨちゃんと話が合いそうだね。翔さんよりはよほどケムヨちゃんに合ってると思う」
切符を購入しながら夏生がさらりと言った。
「えっ?」
「あのさ、翔さんと付き合ってるとき、ケムヨちゃん無理してたじゃない。自分と釣り合わないんじゃないかって卑下したり、それに似合うようにって躍起に
なったり、他の女性が翔さんに近づいたとき一人で強がりながらも、こそこそ心配になって落ち込んだり、あの時のケムヨちゃんみてたら私も苦しかった。そんな
んで本当に楽しいのかなって思ってたんだ」
「夏生……」
購入した切符をケムヨは握りしめてしまった。
「翔さんは確かにかっこいいし、仕事もできて、頭もいいし、何もかも揃った人だけど、どこか冷たい印象があった。性格が悪かったって言いたいんじゃな
いのよ。なんていうんだろ。割り切って行動できるっていうのか、野心を持ち過ぎて自分のことしか考えてないって印象だった」
夏生の話はケムヨにも思い当たる事があった。だが当時はそんなこと気にすることもなく、ひたすら翔に惚れていた。
「正直に言うけどさ、私、翔さんが浮気したって聞いて、やっぱりって思っちゃった。でも遅かれ早かれそういうことが発覚してよかったって今だから思う。ケ
ムヨちゃん、翔さんが帰ってきたからっていって、情に流されちゃだめだよ。よく考えた方がいい。お節介ってわかってるんだけど、これだけは言っておきた
かった」
最後は舌を出すようにお茶目な表情を見せる。多少の無礼は許して欲しいという夏生の態度だった。
「そっか、だから将之たちをカラオケに誘って、将之の味方をしたってことか。あれも夏生の策略の一つなんだね」
「さあ、どうだろう。あれは偶然だったから。それに皆でカラオケ行った方が断然楽しいじゃない」
あくまでも白を切る。
それがお節介であっても、ケムヨには夏生の気心がよく見える。
「夏生、いつも心配かけてごめんね」
「それはいつものことだから、気にしてない。それじゃ私もう行くね。ダーリンの夕飯作んなくっちゃ」
ケムヨとは方向が違うので夏生は先に改札口を通って行ってしまった。
どこまでも明るく、見かけはほんわかとしていてるが、夏生は育ちのいい正真正銘のお金持ちのお嬢様だった。
そういうことをさらけ出さない、庶民的な感じのする雰囲気がケムヨは好きだった。
そしてケムヨも夏生とは劣らないお嬢様ではあるが、のびのび制限なく自由に育った夏生と比べると環境は違うものだった。
唯一、祖父の幸造が夏生と素の素性で付き合うことを許したために、夏生はケムヨの家の事情を良く知っている。
時々医者という立場から協力的なこともしてくれるので、幸造は夏生の家族には頭が上がらない。
あの幸造と同等に接しられるのは夏生の父親くらいのものだった。夏生の父親の話だと幸造も素直に聞き入れる。
そのためその娘である夏生も幸造からかなり可愛がられている存在だった。
そんな夏生が翔について正直な感想を述べた。
ケムヨは深く考えてしまう。
普段から人との付き合いを制限されているケムヨにとって、恋をするのは無縁に等しかった。
そんな時に、たまたま一緒に仕事をした翔に簡単に憧れてしまい、役に立ちたいと彼のために必死で働いてしまった。
当時、ケムヨも有能な部類の社員だったために、その仕事のスマートさに翔も無視できなかった。
ケムヨとパートナーを組めば面白いほどに事が上手く運んでいく。
そして素直で真っ直ぐな清楚な部分も含め、翔もケムヨに惹かれて行った。
翔もケムヨの側に居る事が多くなれば、二人が恋に落ちるのはさほど時間が掛からず仕舞いという訳だった。
ケムヨにしたら翔は初めての彼氏であった。
そして翔は、ずば抜けたハンサム、仕事もできると知れ渡ると会社内では注目度も高まり、自然と女性達の憧れの的になっていった。
そんな翔が自分の彼氏だと思うと、ケムヨも自惚れ、自慢したい気持ちが芽生えてしまった。
優越感に浸るという気持ちが持ってるものを失いたくないという守りに入る。
つまらない意地といってしまえばそれまでだった。だがそういうものに入り込んでしまうと目が覚めるまで自ら抜けられないものである。
二人は仕事のパートナーであるために公私混同は避けたくて会社では素知らぬふりをしていたが、地味目なケムヨということもあり、まさか翔の彼女だとは誰も思わなかった。
あくまでも縁の下の力持ち的存在で、いつも日の目を見るのは翔だけだった。
そんなケムヨに翔だけは仕事振りを褒めては認めていた。
心さえ充実していればケムヨも満足のはずだった。翔のために頑張れる。そういう気持ちだった。
しかし、徐々にバランスが崩れていってしまった。
翔の躍進は稀を見ない程どんどん出世していったのと比例して、ケムヨの不安も大きくなっていくというものだった。
翔は常に上を狙い向上心を高めて登り詰めていく。
時には仲間を利用して蹴落とすといったこともあったが、会社の利益に繋がればそれが肯定されてしまう。
ケムヨもそれはそれで割り切っていた。
というより、翔のために必死になり過ぎて周りのことなど見えてなかったのかもしれない。
翔に嫌われたくない思いが強くなりすぎて顔色を伺うようになってきていた。
翔がモテたことはケムヨは目の前で見てるのであからさまに知る事ができた。
だけど翔を信じ、自分が仕事を支える事が翔の一番の役に立ってることだと思い、そうすれば翔は決して裏切らないと思い込んでいた。
本当は怖かった。
そう思わないとやっていけない部分があった。
惚れてしまった弱み。しがみついてしまって、いい部分しか見ようとしなかった。
だが、露骨に女性達は翔に近づこうとする。それはケムヨを嫉妬へと駆り立て、正常な判断から益々逸脱していく。
自分の中で抱いていた秘密も影響し、これをいつ告白すればいいのか迷いに迷ったあの日──。
あの時期は仕事で知り合った会社の社長令嬢が翔に付き纏ってる噂を聞いたときでもあった。
もう自分の中で黙っていられなくなって覚悟を決めて翔に会いに行ったのだが、その後はあの悲惨な出来事に続くという訳だった。
夏生に言われなくても自分が一番よく分かっている。
別れた後、自分がバカだったとやっと気がついた部分があった。
でもそんなことよりも翔に会ってしまうと一番に蘇るのは楽しい思い出ばかりなのが皮肉なものだった。
翔も離れてみて後悔していると示唆してきた。
そこを考えると、やはり情に流されてしまいそうになる。
夏生もそれをお見通しだから釘を刺してきた。
ケムヨにもプライドというものがあるから、いくら情に流されようがやはり浮気は許しがたい。
しかしこのまま常に翔に会えば自分はどうなるかわからないでいた。
ボーっとしながら帰っていると、いつの間にか自分の家の前に来ていた。
プリンセスが尻尾を立てて門の前にいる姿が目に入る。
その姿を見てケムヨは幾分か救われた。
将之が勝手に餌付けして懐いてしまったが、それも悪くはなかったと思えるようになる。
「プリンセス、今日は将之忙しくて来られないけど、また私が餌あげるからね」
プリンセスはケムヨの足に纏わりついて頭を摺り寄せる。
寄って来られることは結構嬉しいと思うと同時に将之のことを考えていた。
ケムヨはプリンセスの頭を優しく撫ぜてやった。