第一章


 月の変わり目、全ての授業が終わった後のホームルーム。 くじ引きによる席替えが始まった。 
「それじゃ恨みっこなしよ。誰が隣に来ても、皆仲良くしてね。その新しい出会いに、この先の学校生活に変化を与えてくれるかもよ。新しい恋も芽生えるかもよ」
 担任の鮎川華純(あゆかわかすみ)がはきはきとした口調で、このドキドキする瞬間を盛り上げようと茶目っ気たっぷりに振りまいた。
 多感な年頃の生徒たちは、内心期待している事を指摘され、恥ずかしさから「ないない」と粋がって否定する。
 しかし、密かにそれを期待して、あの人の隣になりたいと口には出さずとも願うものは居た。
 この時、クラスの女子達は松永優介の隣を願っていた。
 松永優介は、誰もが認めるかっこよさがあり、一度見れば興味を惹かれるところがあった。
 鮎川華純は教壇の上から優介をちらりと見て、女子の反応を観察していた。
 数人の女子は、さりげなさを装って優介を見つめ、ドキドキと期待している様子に、華純は微笑む。
「皆、恥ずかしがりやね。いいじゃない、素直に期待しても。恋する事なんて恥ずかしくもないのよ。例えそれが叶わなくても、胸にその思いを抱く方が高校生活も楽しいじゃない」
「鮎川先生、それは経験論ですか?」
 お調子者である蒲生久人(がもうひさと)が、口を挟んだ。
「そうよ。先生も高校生の時は大いに恋したわよ。思いっきり失恋したけどもね。でも今はいい思い出だわ」
 鮎川華純は教室を見渡して、昔を懐かしんだ。
「何、遠い目になってるんだよ」
「いいじゃない別に。蒲生君だって恋にふけてぼーっとするときあるでしょ」
「お、俺はそんなのねぇよ」
「蒲生は恋というより、食い気だろ」
 誰かが茶々を入れ、からかった。
「うるさい! しかし腹は減ってるから、なんか食いたいなぁ……」
 頬杖をつき、夢見るように遠い目の仕草を態とすると、クラス中に笑いが起こった。
 蒲生久人は物怖じせずに、クラスの中でも積極的に発言し活発ではあるが、体が少しふくよかで、見かけは三枚目だった。
 しかし、素直さと愛嬌があるので、馬鹿な事をしてもクラスの中では愛される存在になっていた。
 この時、久人の隣には紫絵里が座っていたが、久人の憎めない行動に紫絵里もクスッと漏らしていた。
 久人は紫絵里に笑われて「へへへ」と照れた笑みを見せた。
「とにかく、皆、青春しなさい。だからこのクラスの席順は、男女ペア奨励!」
「担任が煽ってりゃ、世話ないわ」
 また誰かが口を挟んだが、先生という立場で有無を言わせず男女ペアの席順を決められると、却って清々しく受け入れやすかった。
 物事をはっきりとさせるお蔭で、鮎川の評判は悪くはなかった。
 器量はとびっきり美人ではないが、自分に自信があり、キビキビとして見ていて気持ちがいい。
 信頼できる頼もしさと、話しかけやすい態度で生徒たちは華純を気に入っていた。
「ほらほら、これは先生からのチャンスよ。有難く受け止めなさい。それじゃ、くじ引きの箱を回すよ」
 男女別に分けられた、華純お手製の四角い二つの箱が順番に回ってくる。
 上の部分に丸く穴が開いていて、そこにみんな手を突っ込んで紙を一枚取っていく。
 紙に書かれている数字と、あらかじめ黒板に書かれた席順の数字と見合わせる。
 自分の席がどこになるか、誰もがドキドキ、ハラハラとしていた。
 鮎川はその生徒たちを見つめ、かつての自分の姿と重ね合わせる。
 過去の自分によく似た生徒はいないかと思った時、紫絵里が当てはまるように思えた。
 今ではすっかりと大人になって、それに伴って、考え方も性格も変わったが、以前は友達も少なく、融通の利かない頑固な子供だった。
 迷える子羊のように、まだ不安定な年頃の生徒達を見ながら、少しでも彼らの役に立ちたいと、華純は胸を張った。
 クラスの中では生徒を支配する立場として気持ちよく、自分が教師として教壇に立ってることがとても感慨深く思えるのだった。

 くじを引き終わった生徒たちが、そわそわして自分の席を確認している。
 クラスで一番人気のある松永優介がちょうど、くじを引こうとしている時だった。
 女子達の目が一斉にそこに集まった。
 優介がくじを引いた後、その番号を確かめようと、女子達がそわそわと落ち着かない。
 彼女達は密かに優介の隣になれることを願っていた。
 優介はその名前が人柄を表しているように、誰にでも優しく、気さくな男子生徒だった。
 少年と青年のちょうど間のまだあどけなさが可愛く、不意にふと憂いを見せた表情に気品を感じ、笑えば爽やかに清々しい好青年だった。
 分け隔てなく誰とでも話すから、仲良くなるには時間がかからない。
 そのため、女の子達はすぐに気を許してしまって、優介の事を気に入ってしまう。
 要するにモテル男だが、それを鼻にかけずにあくまでも自然体だから、隠れファンも多い。
 そして、この放課後、一番人気の優介の隣の席を手に入れたのは紫絵里だった。
 それがわかった時、女子達は心の中で舌打ちをした事だろう。
 その中でもクラスでも目立つ女の子達は、気に入らないと露骨に悪態をついていた。
 そんな事お構いなしに、紫絵里は気にせず背筋を伸ばして堂々としていた。
 紫絵里が自分の机を動かして、優介の隣にくっつけた時、優介はすぐさま挨拶をした。
「おっ、瀬良か。よろしくな」
「えっ、ああ、よ、よろしく」
 挨拶されると思わなかっただけに、不意に声を掛けられ紫絵里は戸惑った。
 それよりも、自分の名前を知られていたことにもっと驚いた。
 メガネの奥から覗く瞳の視線が定まらないまま、慌てて受け答えをしていた。
 紫絵里はこの時まで、まだ優介の事に興味がなかったのかもしれない。
 女の子達が憧れていることは知っていても、自分には関係なく無感情だったに違いない。
 しかし、昔から友達のような感覚で自分の名前を呼ばれ、この時、心の中の何かがはじけ飛んだ。
 その瞬間から、他の女の子達が同じ道を辿ってきたように、紫絵里もまたそのパターンに陥るのに時間はかからなかった。
 次の日から、紫絵里は優介の隣で過ごすことになるが、物おじしない優介は積極的に紫絵里に話しかけていた。
 一度話しかけられば、紫絵里との距離は縮まっていくように、二人は全く知らない仲じゃなくなっていく。
 また、真面目な紫絵里は優介にも都合がいい。
 宿題はきっちりとこなし、予習も怠らず、無難に勉強をしているその様子は優介にも伝わる。
 だから授業中、優介が当てられて、返答に困っている時、紫絵里はさりげなく答えを教えてあげていた。
「ありがとな」
 椅子に座ると同時に、紫絵里に身を寄せて、小さく囁く優介の声が、紫絵里の耳にさらりと届く。
 紫絵里はくすっと笑いを漏らすように微笑んでいるのか、肩が少し上下した。
 その姿は、一番後ろの席にいた真理の視界にも入っていた。
 まだその時は虚ろに二人を見ていただけだった。
 休み時間、真理が席を立てば、紫絵里は優介と何かを話していて、近づきにくい雰囲気が伴う。
 常に紫絵里と一緒に過ごしている休み時間なのに、いつもと何かが違っている。
 どうしていいのかわからない真理は、少し躊躇しながらも、紫絵里の席へと足を向けた。
 紫絵里の笑い声が間近で聞こえた時、真理は邪魔をすべきではないと遠慮して、踵を返そうとしたが、それに気づいた優介が咄嗟に声を掛けてきた。
「なあ、お前はどう思う? やっぱりこれおかしいよな」
 教科書に載っていた写真を指差し、優介は真理に笑顔を見せた。
 いきなり話を振られて、真理は放心状態になって突っ立っていると、振り返った紫絵里が我に返り、さっきまでの陽気な笑いがすっと消えた。
 いいところを邪魔された不満にも思え、真理はこの上なくおたおたしてしまった。
「あの、その、私、何のことか……」
「もう、松永君、純情な真理を巻き込まないでよ。彼女困ってるじゃない」
 真理を庇うようでいて、そうじゃない本音がそこに紛れているようにも思え、いつもの紫絵里じゃないと、真理はなぜか思った。
「別にいいじゃないか。瀬良の友達なんだから」
 優介の言葉で紫絵里ははっとして、恥を感じたように気まずく俯いた。
 それだけで、真理には紫絵里の乙女心が読めた。
 友達だけど、優介が絡めばまたそれは違う間柄になってしまう。
 紫絵里は優介を独り占めしたいのだ。
 幸運に恵まれ、クラスの人気者の優介の隣の席となった紫絵里の心に異変が起こるのも無理なかった。
 優介のバランスのとれた整った顔は、見る者の好みのツボを突き、すぐに気に入ってしまう。
 その顔で笑顔を見せられ、あれだけ親しげに話しかけられたら、勘違いしてもおかしくない。
 もしかしたら、自分の事を気に入ってくれたのかも。
 淡い期待と自惚れ。
 優介との楽しいおしゃべりは、夢見心地に仄かな恋心へと変わっていく。
 紫絵里のそんな気持ちが、手に取るように真理には見えていた。
「えっと、お前の苗字なんだっけ。なんか覚えにくいんだよな」
 真理を見て、優介が首を傾げた時、再び紫絵里は高揚する。
 自分はすぐに名前を呼んでもらったが、真理の名前は心の片隅にもなかった。
 喜びたいような優越感が現れた。
 だが、その直後、それがすぐに崩れた。
「下の名前が真理ってだけはわかってるんだけど。それじゃ、俺も真理って呼んでいいか?」
「えっ、ええ、かまわないけど……」
 気さくな優介にとって、名前なんて上も下も関係ないのかもしれないが、堅苦しい苗字を呼び捨てにされるよりも、下の名前を親しく言われる方が特別な響きに聞こえてしまう。
 その違いを電波が伝わるごとく感覚で受け取り、紫絵里の体にぐっと力が入って顔がこわばった。
「真理、お前さ、どこか悪いところあるのか?」
「えっ?」
 突然何を言い出すのか、突拍子もない質問に真理はびっくりしてしまった。
「どうしたの松永君、そんなに真理の顔色悪い?」
 紫絵里は、真理の色の白さを下げるように扱い、しれっと間に入ってきた。
 真理の肌は確かに青白く見えるが、肌理(きめ)の細かい陶器のような白い肌でもある。
 優介は、困惑している真理の顔をまじまじとみながら、その白い肌に今更気が付いた様子だった。
「いや、俺は別に肌の事を言ったんじゃない。確かに見ようによったら白いから病弱に見えるかもしれないけど、よく見たら色白ですごい肌がきれいなんだな」
 真理を褒めた言葉は紫絵里の心を突き刺す。
 自分の友達なのに、この時はそれがとても邪魔になるくらい、忌々しい苛立ちが心に現れた。
「それじゃ、なんで悪いところがあるなんて、真理に訊くのよ」
「いや、ちょっと病院で見かけた事があったんだ」
「病院?」
 紫絵里が繰り返す。
 そして真理をメガネを通して冷たく一瞥した。
「えっ、私、その……」
「あっ、そうだよな。ごめん。そんなプライベートな話、質問するのが野暮だよな。すまない」
 優介の方が慌てだした。
「だけど、病院で見かけたって言ったら、松永君もそこに居たことになるけど、松永君こそ、どこか悪いの?」
 メガネの奥から、先ほどとは違う緩和された紫絵里の心配する眼差しが注がれる。
「俺もちょっと怪我しちゃってお世話になったんだ。それでその時、真理によく似た女の子と廊下ですれ違ったんだ。覚えてないかな?」
 苗字を思い出せない代わりに、優介は『真理』と遠慮なく名前を呼び捨てにしている。
 真理は何も言わず、ただ視線定めないままに、瞳が不安に揺れていた。
「きっと見間違えたんじゃないの? 知ってたらお互いはっとするだろうし」
 紫絵里は不穏な空気が入り込んだように、優介と真理を見比べていた。
「それが、入学する前だから、まだその時はお互いを知らなくてさ、俺も後から気が付いたんだ。そういえば病院の廊下ですれ違った子に似てるなって。声かけて確かめるような話でもないし、まあ、瀬良と同じ席になったしさ、その繋がりでちょっと訊いてみただけなんだ」
「それで、それは真理だったの?」
 紫絵里は真理に視線を向けた。その目つきは少しイライラしていた。
「それ、私じゃないわ……」
 弱弱しい声で真理は言った。
「なんだ、やっぱり人違いか。だけど、良く似てた。教室で真理を見たとき、なんだかハッとしたくらいだった」
 優介の見つめる目が真理にくぎ付けになっていた。
「他人の空似ってあるんだね。もしかして、それ幽霊だったりして。ほら、真理はなんとなくホラー映画に出てくる主人公にも見えなくないかな」
 紫絵里はこの場の雰囲気を変えたくて、大切な友達を下げてまで茶化そうとする。
「うぉ、それって、あの貞子とかいうんじゃないだろうな。まさか。そんなのに出会ったら、俺、死んじゃうじゃないか」
「違うよ、まず、ビデオ観るんじゃなかったっけ」
「ビデオか。今じゃ、ビデオデッキもなくなってるし、手に入れる方が難しくなってるな。しかし、そんな怖いホラー映画とか、瀬良は観てるのか?」
「別に好きで観てるとかじゃなくて、噂をきいたから、ちょっと興味を持っただけ」
「他にどんな映画が好きなんだ?」
「えーと、一杯ありすぎて、一つに絞れない」
「おっ、瀬良も映画好きなのか? 俺も映画は好きだぜ」
「へぇ、そうなんだ」
 すっかり真理を置き去りに、優介と紫絵里の会話が繰り広げられていた。
 紫絵里は再び満足し、自分と話が合う話題を見つけて、先ほどの不安が払拭されていた。
 そのうちチャイムが鳴り、 真理は自分の席に戻っていく。
 優介と紫絵里の横顔、弾む会話、笑い声、それらをぼんやり瞳に映しながら静かに一番後ろの席についていた。
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