第二章 裏側に潜む真実に気づかれず


 教室の窓についた水滴を、自分の流してきたいくつもの涙と重ね合わせ、真理は内側の窓から流れる雨の滴を指でなぞっていた。
 雨脚が強くなってくる。
 入り込んでくる雨も気にせず窓を開け、水滴をいくつか顔に受けながら、雨降る垂れ込めた空を仰いだ。
 まだ誰も来ていない、少し薄暗い早朝の教室。
 静寂さに呑み込まれそうに、自分も消えてしまいたい気持ちに衝動的に駆られる。
 いっそ窓から飛び降りてみようか。
 自由になれるかもしれない、その誘惑に魅せられ、窓の下を見ながら葛藤するも、口元は少し微笑している。
 結局くるりと向きを変えて背中を向けた。
 ふと見た黒板の隅には、紫絵里が描いたハートマークがまだ残っていた。
 それが急に目に飛び込めば、一回り大きく膨張していく目の錯覚を覚え、心をざわつかせる。
 ハートというマークはどうしてこれほども、強いメッセージを秘めているのだろうか。
 文章の最後にに添えるだけでも、温かさを感じ、そこに愛があるように思えるから不思議だ。
 紫絵里が描いたあのハートは、優介に向けた熱い気持ちを表したもの。
 それを見るだけで、心にある思いが飛び出しそうに、真理の胸がズキンとする。
 真理の心の痛みを添えたその思いは一体誰のために注がれるのだろか。
 それともちゃんと行き場があるのだろうか。
 無駄に流れて、巻き散らかされないだろうか。
 まるでむやみに傷ついて、ほとばしる血が飛び散っていくさまが見えるようで、真理はざわめきを抑えるように自分の腕を抱え込んだ。
 黒板のハートを見つめながら、真理の足はそこに向かっていく。
 憑りつかれたようにそれを見つめていた目は、虚ろに陰るも、真理の憂いなその表情は美しかった。
 苦悩した想いと、熱い秘めた愛。
 反発しあって、まるで火花が飛び出して心の奥でスパークする。
 それは一瞬で燃え尽きても、焦げ付きは消えないままに無数に点々と残っていた。
 思いが強ければ強いほど、激しく黒い染みが増えていく。
 最後には漆黒に包まれ、炭になり代わるのかもしれない。
 迷って、抵抗して、そして見て見ぬふりをしようと、自分で抑え込んで誤魔化し、表面だけは取り繕って笑顔で忘れようとする。
 答えがわかっていても、考えないように、押し込められるだけ今は封印していたい。
 気を取られて、心ここにあらずになりながら、真理は自分で作った迷路の中にわざと迷い込んでいた。
 雨雲と降り続く雨のせいで、充分な明かりが届かないその湿った教室の中、思いつめたエネルギーの強さが、色白の真理を淡く浮かび上がらせている。
 開けた窓から聞こえてくる控えめな雨音。
 時折、風でガラスに叩きつけられている雨の滴。
 湿った空気と混ざり合った、教室のぼやけた匂い。
 自分の今の想いに似たものを全身で感じていた時、真理はチョークを手にして心の想いのままに手を動かした。
 描き終われば、どこか満足気味に口元が上向き、真理は微笑した。
 それを空虚に見つめる。
 ブロークンハート──紫絵里が描いたハートのマークは引き裂かれてジグザグ線が書き加えられていた。
 ヒビが入ったそのハートは、温かさを失い、悲哀なマークと変貌した。
 これもまた、強いメッセージを表し、もの悲しげに人の目に映る。
 それが本音だとしても、紫絵里の気持ちに水を差したかっただけだろうか。
 それとも真理自身の壊れた心なのだろうか。
 闇の深さに翻弄され、真理は暫く佇んでいた。
 廊下から、人が近づいていくる気配がしたとき、はっとして誰にも見られてはいけないと急いで黒板消しを手に取った。
 次第に耳に入る足音、そして話し声がすぐそこに来ていた。
 なぜだか、恐れるようにドキドキして、叩きつけるような力強さで擦り取る。
 それは、すぐさま白い汚れを残して、壊れたハートを消し去った。
 真理は何事もなかったように、一番端の窓際に立ち、目立たぬように外を見つめた。
 この季節にふさわしい鬱陶しさを暫くの期間もたらしそうに、雨はやむ気配なく振り続けている。
 空から水が流れるその様を眺め、自分がこれから流す涙のように、真理はもっと降ればいいと強く願う。
 真理の背後で、教室に入ってくる女子生徒達の声がする。
 まだ人が来ていないことをいいことに、好き勝手に話し、それが真理の耳にも入ってきた。
「柳井さんもいい気味よね」
「そうだよね」
 悪意のある厭らしい言い方。
 二人の女子が、瑠依の悪口を言い始めた。
「松永君は自分のものみたいに、女子の間では手を出すなって、牛耳ってたけど、瀬良さんにコケにされて、焦ってさ」
「そうそう。いつも威張って自分中心だと思ってるから、本当にいい気味」
「取り巻いてる人たちも、犬みたいにホイホイよくついていくよ」
「本当に馬鹿みたい。支配されて何が嬉しいのやら」
「その点、瀬良さんは怖い者知らずだね」
「だけど、瀬良さんも二度も松永君の隣の席になってさ、いい気になり過ぎ」
「それ、私も思った。あれもちょっとうざいよね」
「まさにそれ、身の程知らずって感じで、見ててイタイし不快だわ」
「まさか、松永君が瀬良さんを好きでいるとか本人勘違いしてないよね」
「うわっ、それだったらびっくりだよね。誰がみても不釣り合いだし、自惚れにも程があるわ」
 真理が居るのに、堂々とその会話は続けられた。
 本人の耳に入ってもいいというくらい、人に聞かれても彼女たちは気にしてなかった。
 彼女たちの悪口は、何人かが教室に入ってきたところで終わり、そのあとは他愛のない世間話へと変わっていった。
 次々と生徒が登校し、次第に教室はざわめきだしていった。
 思い思いの会話が始まり、先ほどの悪口はなかったことのように、あの二人の心の中にまた隠れていく。
 悪口を言っていた二人の女の子たちの前に、瑠依が朝の挨拶をしながら現れた。
 本人に隠れて本音を漏らし、本人の前では笑顔を作って、何事もないように会話を交わす。 
 表面は仲の良い友達同士に見えていても、心の中では嘲笑っている馬鹿げた関係。
 みんな仮面を被っていた。
 そこに紫絵里が教室に入ってきた。
 瑠依は気に入らない目つきで、紫絵里の動きを追い、瑠依の悪口を言っていた女の子達も、同じように馬鹿にして見つめる。
 そしてこそこそと、瑠依に紫絵里の事を話して、露骨に嫌な顔を向けていた。
 さっきまで瑠依の悪口を言っていたというのに。
 誰もが自分の本能で抱く思いのままに、気に入らなければ敵意をむき出しにする。
 相手によって、悪意と気持ちのぶつけ先を器用に変える。
 人間なんて、こんなもの。
 それを上手く使い分けられる人が、一番得をし、賢い学校生活を送れるのだろう。
 決して本心を知られないで、全てに順応できる人こそが、コミュニケーション能力が高いといわれるのかもしれない。
 だが、人の事を悪く言わず、自分にも驕らず、悪意も意地悪もない、そういういう人の方がもちろん立派だ。
 そういうことは誰しもわかっているのだろうが、わかっていてもなれるものでもないのが悲しいところ。
 人間には、不満、嫉妬、憎しみが湧く。
 これがあるから、人は狂ってしまい、言葉になって口から悪意や意地悪が飛び出し、挙句の果てに行動に出てしまう。
 全ては自分の事を守りたいから。
 自分がかわいいから。
 自分の欲望が抑えられないから。
 そして、真理もその中の一人であることは充分承知していた。
 「おはよう」と紫絵里が傍に寄ってきて、真理に声を掛ける。
 真理も微笑んで「おはよう」と挨拶する。
 黒板に描いたブロークンハートの事を思い出しながら。
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