第二章
6
水族館を出た途端、ムシムシとする湿気が肌にまとわりつく。
少し体が冷え切っていた紫絵里には、体が温められていく快適さを感じたが、それはほんの少しのことであって長く続かなかった。
何かの変化ですぐ振り回される一喜一憂のように、気持ちの浮き沈みが体全体を通して激しくなっていた。
外で暫く歩いていると、すぐに熱が体にこもり、汗ばみだした。
ハンカチを手にし、軽く額を抑え、息を一息ついた。
その隣で、真理は涼しげな顔をしている。
白い肌が引き立つ、清楚な少女。
見るからにすっきりとして、清涼感すら感じてしまう。それだけでもまたモヤモヤしていた。
「どうしたの? じろじろと私を見て」
か細い真理の声がかわいく聞こえ、この時耳触りも悪く感じる。
「真理は暑くないの? いつも涼しそうな顔をしてるね」
「みんなと同じだよ。でも、まだ真夏って天気じゃないし、我慢できるかな」
「我慢とか、そういう問題じゃないけどさ、青白いって健康的じゃないけど、暑苦しさが顔に出ないって得だね」
「紫絵里は、暑いの? 何か冷たい物でも買いに行く? そろそろお昼だし、どこかでお弁当食べようか」
嫌味っぽく言ってしまった事を悔やまれるくらい、真理は気にせず笑っていた。
「そうだね……」
紫絵里はその笑顔を見るのが辛く目を逸らした。
ピクニックエリアと称される広場には、テーブルとイスがオープンカフェのように置かれていて、好きに座って過ごせるようになっている。
周りには売店もあり、軽食やデザートが色々と売られていた。
お昼時でもあり、そこは人が集まり活気に溢れている。
大概が制服に身を包んだ学生たちだったが、この辺りのビジネスに貢献していることには変わりなかった。
紫絵里と真理もその一角で場所を見つけ、持ってきていたお弁当を細々と食べていた。
自由時間もまだあり、これからどこへ行くか話し合っていた。
同じクラスの女子達が傍を通った時、紫絵里を一瞥し、こそこそ何かを話しながら通り過ぎていく。
最後は笑い声が聞こえた。
明らかに感じ悪く、気分が悪くなってくる。
紫絵里も負けじと、その女の子達を睨み返していた。
自分が嫌われる理由を紫絵里は知っている。
優介の隣の席で親しく話しているのが気に食わないに違いない。
そして、教室から出れば、優介と接点がなくなり、所詮独りよがりだと嘲笑っている。
「それぞれの友達がいるんだから、こういう時は離れるのは仕方がないじゃない」
ぶつぶつと紫絵里は呟いていた。
その問題には触れずに真理は椅子から立ち上がった。
「そろそろ、行こうか」
「どこへ行くのよ」
「うーん、あっちの方はどうかな」
真理が指を差した方向には大きな観覧車が、曇り空に包まれるようにどんよりしながら、こちらを見下ろしていた。
目を凝らさないと見えないくらいノロノロと動くさまは、巨大で得体のしれない不気味さを感じる。
その存在は目立って無視できないくらい、そこに行くのは当たり前のように思われた。
「いいけど、もしかしてアレに乗りたいの?」
「近くで見てみたいだけ」
「乗らずに、近くで見るだけ?」
「どれだけ大きいのか、傍に行ってみたくない? 離れていたら感覚つかめないでしょ」
「そういうものなのかな」
「きっと近づいたら、ものすごく大きい物だって実感するよ。そして急に恐れるの。こんな大きなものが本当にあるんだって」
「ここから見るだけでも十分大きい物だって認識できるけどな」
紫絵里は真理のテイストが理解できないでいた。
真理はずっと観覧車の上の方を目を凝らして見ていた。
観覧車はのっそりとした動きで確実に動いているのが、近づくにつれよく見えてくる。
紫絵里がその麓まで来た時、まっすぐ上を見つめることで、かなりの高さがあることに気が付いた。
よく考えれば、ぶら下がった鳥かごのような入れ物に乗って、ゆっくりと上へと連れて行かれる。
高い所で不安定に揺れながら、空中を彷徨うのは恐怖心をそそられる。
それを想像すると、巨大生物みたいに、観覧車が違うものに見えてきた。
「ほんとだ、近くで見ると迫力ある乗り物だ」
紫絵里はメガネのブリッジを抑え、見上げていた。
「地味に動きながら一周回るだけなのに、乗れば結構怖いと思う。もし上にいる時に、止まったりしたら、恐怖だろうね」
真理の口元はどこか上向き、微笑んでいる。
冗談なのだろうが、紫絵里はぞっとするような気持ちになった。
それは巨大な観覧車が故障する恐怖なのだろうか、それとも真理が事故を望んでるように思えたからなのか、なんだかわからなかった。
視点を変えてみれば、普段感じない事が違って見えてくる感覚に、些細な不安を紫絵里は感じるようになっていた。
ぞわぞわとする不快さと、自分の見解が覆される煩わしさと、そして自分のやりたいことを遮られる苛立ち。
明らかに落ち着かず、上手く感情を表現できないままに、心の中で靄がかかる、そういう気持ち悪さがあった。
晴れでもなく、雨でもなく、灰色の雲に包まれたどんよりとした空の下にいると、特に息苦しくなっていった。
真理は、観覧車をしつこく眺めていた。
「そんなに観覧車が気になるんだったら、乗る?」
紫絵里は誘ってみた。
「ううん、いい。想像するだけで、なんか怖くなる。もし乗りたかったら、紫絵里行ってきていいよ」
「そんな、一人で乗っても楽しくないでしょうに。こういうのは……」
紫絵里がそこまで言ったとき、言葉が途切れた。
その後に、好きな人と一緒に、と続けようとしてたことに、優介と乗りたいという気持ちになってしまい、観覧車の怖さと優介を思う気持ちでドキドキとしていた。
真理は何事もなかったように聞き流して、上を見続けていた。
その時、観覧車の降り口で、急に慌ただしい雰囲気が漂い、騒然としだした。
スタッフが、大慌てに何かを叫び、そこに救急車という言葉も飛び交っていた。
観覧車は緊急停車し、皆不安になる中、腕をだらりと垂らしてスタッフに抱えられて運び出される人の姿が見えた。
その姿は意識がなく、明らかに生命の危機を感じさせる切羽詰まった状態だった。
紫絵里は突然の事に狼狽え、ただ茫然と立ち竦んでいた。
その傍で、真理は無表情のまま上空を見上げ、そして悲しげにか細い溜息を静かに吐いた。