第三章 何も恐れずに解放されるとき


 遠足が終わった後、クラスの様子が違ったように見えたのは、紫絵里の自信からくる思い込みのせいだろうか。
 その遠足の翌日の事、クラスの女子の噂を紫絵里が耳にしてから、紫絵里は特に変化の違いを感じていた。
 紫絵里が耳に入れたというより、瑠依とは全く関係のないクラスの女子が直接紫絵里に近づいて話を持ちかけた事がきっかけだった。
「ねぇ、瀬良さん、ちょっといい?」
 普段は話すこともないが、瑠依の取り巻きよりはまだ臨機応変に言葉を交わせるグループに所属している小泉ミナミが、朝教室に入ってくると、好奇心丸出しに紫絵里の袖を引っ張って廊下に連れ出した。
 紫絵里は戸惑うも、強く断りきれずになすがままに連れられていく。
 真理もその後を静かに追った。
「ちょっとどうしたの?」
 紫絵里が訝しげな顔をしているのも気にせず、小泉ミナミは辺りを確かめてて小声気味に話し出した。
「あのさ、耳にしたんだけどさ、瀬良さんは松永君と付き合ってるんだって?」
 突然の事に紫絵里はびっくりしたが、前日の流れからすでに自分もそうなると確信していたので、返事が曖昧になってしまった。
「それは……」
「ちょっと、本当の事教えてよ」
「でも、一体どうしたの?」
「昨日、柳井さんと松永君が二人で観覧車に乗った時、柳井さん思い切って告白したらしいのよ。その時、松永君は好きな人が居るからって、断ったんだって。 それで柳井さんはもしかして、同じクラスに居るのって訊いたら、松永君は首を縦に振ったんだって。そしたら、当てはまるのは瀬良さんしかいないじゃない」
「あっ……」
 突然の突き上げるような胸の高鳴り。
 紫絵里はドキドキとして高揚していた。
「ねぇ、一体どうなってるのよ」
「どうもこうも、それはプライベートなことだし」
「なんでもったいぶってるのよ」
 小泉ミナミはじれったいとばかりに、苛立っていた。
 しかし普段から仲良がいい訳でもなく、こういう時だけ寄ってきて知りたい事だけを探られる事に、紫絵里は辟易した。
 ちょうどその時、その噂の瑠依が廊下を歩いて来て、紫絵里を一瞥する。
 プライドをくじかれた悔しさと、苛立ちで、きつい目を向けながら、敗北に沈んでしまったぎこちない足取りで教室へと気まずそうに入っていく。
 その敗者の後姿は、なす術もなく弱り切っていた。
 それが滑稽で紫絵里は心の中で嘲笑った。
 一時は観覧車から優介と降りてきて衝撃を受けたが、真実を知ると、あの時の状況がとてもよく呑み込めた。
 あれは事故に巻き込まれたのが原因ではなく、優介に振られたからショックを受けて、それで友達の元に走って泣きついていた。
 全ての事情を呑み込んだ紫絵里の優越感に浸った笑顔が、真理の瞳にも映っていた。
 厭らしいむき出しの欲望がギラギラして、真理はそれを見るのが辛かった。
「ねぇ、瀬良さん」
 中々話そうとしない紫絵里を、小泉ミナミは急かした。
「ちょっと、勘弁して」
 嫌気になりながらも、隠せない気持ちでにやついた紫絵里の顔は、小泉ミナミに付き合っていると思わせるには充分だった。
 小泉ミナミを置き去りにして、紫絵里は自分一人だけ教室に入っていく。
 真理は最後まで何も言わず後をついていくだけだった。
 紫絵里は自分の席につき、鞄から何かを取り出してそれを掌の中でぎゅっと握っていた。
 何をしてるか、真理にはすぐに気が付き、紫絵里が握っているものを取り返したい気持ちに駆られた。
「紫絵里、あのさ」
 しかし、紫絵里は真理を無視して、ぶつぶつと何かを唱えて祈りを捧げている
 紫絵里の手元を見れば、その握り方で、石は初めて見た時よりも、大きくなっているように思えた。
 もうその石に頼るのはやめて。
 そう言おうとした真理を邪魔するように、優介が元気に現れた。
「おはよう!」
 その声に紫絵里は反応し、笑顔を向けた。
「おはよう、松永君。なんか今日は一層元気だね。なんかいい事あった?」
「そ、そうかな。まあ、ちょっと一つ気がかりなことが片付いたからかな」
「気がかりなことって?」
「えっ、ちょっと昔のことさ。もう終わったことだから、俺も考えたくないんだ」
 恥ずかしそうにはぐらかそうとする優介だったが、真理は空気を読まずに突っ込んだ。
「昨日、帰る間際に声を掛けてきたあの女の子の事?」
「ちょっと、真理」
 紫絵里の方が気を遣い、窘めた。
「まいったな。まあ、あんなところ見られたら隠しようがないもんな。そうなんだ。放っておいた俺も悪いんだけどさ、俺、春休み前にちょっと怪我してさ、中 学の友達と挨拶もなく別れたんだ。だけどこっちは怪我して動けなかったし、仕方がなかったんだけど、まあその時、一人であれこれ考えてたら色々思うことが あってさ、それで人生感が変わったんだ。そしたら昔の事どうでもよくなってしまって、高校に上がったら新生活に追われて忘れてたって訳」
 優介は中学時代の事は詳しく語らなかったが、すでにどういった事か聞いていた二人は、すぐに理解をしていた。
 要するに優介が言いたかったのは、不良だったけど、怪我したことで命の大切さに気が付き、心を入れ直して真面目になったということなのだろう。
 あの時、優介に注意しろと警告をされたが、そんな必要もなく、すでに別人のように心を入れ替えた後では全くの不要だった。
「どれくらい怪我をしたの?」
 真理が訊いた。
「今は、笑い話になるけど、当時はやばかったな。病院の先生も回復に驚いていたくらいさ」
「そういえば、病院で真理とすれ違ったって言ってたね。その時の事ね」
 紫絵里が思い出した。
「うん、そうなんだ。俺と目が合って、にこって笑顔返してくれたから、結構顔を覚えてたんだけどな」
 優介は半信半疑に真理を見ていた。
「あれは私じゃないけど、私の姉に松永君は会ったんだと思う」
「えっ、姉? 真理にお姉さんがいるの?」
 紫絵里も優介もびっくりしていた。
「うん、私たち双子なの」
「嘘! 真理と同じ顔がもう一人いるの? 信じられない。お姉さんはどこの高校行ってるの?」
「姉は体が弱くて、家で静養中なの」
「それで、あの時、診察に来ていて、俺と病院ですれ違ったのか」
 真理はどう反応していいのかわからず、俯き加減気味に戸惑っていた。
 そんな真理を優介は不思議そうに見ていた。
「それにしてもそっくりだった。道理で勘違いしたわけだ」
「そんなに似てるの? うわぁ、私も真理の双子のお姉さんと会ってみたい。見分けられるかな」
 紫絵里は面白半分にしていた。
「私たち顔は似てても、性格は全然違うの。だから、話せばきっとすぐに見分けがつくはず」
「で、お姉さんの名前はなんていうの?」
「マリア」
「真理とマリアか。やっぱり双子だけあって、名前も似てるんだね。是非、そっくりな顔を二つ一緒に見てみたいな」
「おい、瀬良、見世物みたいに言うんじゃないよ。失礼だぞ」
 優介がけん制した。
「いいの、いつも言われる事だから、気にしてない。紫絵里にもいつか会わせてあげるね。マリアもずっと家に引きこもっていると退屈そうにしてるの。早く外に出たいって思ってると思う」
 真理は健気に微笑むも、どこか陰りを帯びていた。
 マリアの話をする時、はっきり言えない心配事がありそうに思え、優介は静かに真理を見ていた。
inserted by FC2 system