第四章


 優介が何かを言いかけて邪魔をされてしまった放課後のその翌日、真理は優介に会うのをいつも以上に意識していた。
 自分の席についた紫絵里の机の前で、真理は優介がいつ現れるのかドキドキとして待ちながらも、顔を合わせるのをそわそわと躊躇う。
「真理、どうしたの? なんだか今日は妙にいつもと違って、落ち着きがないね」
「えっ、そうかな。来週から期末テストが始まるし、なんだか焦りが出て落ち着かないのかも」
「勉強くらいで、真理が乱すなんて珍しいね。真理はいつも冷静で、感情なんてめったに表に出さないのに」
 紫絵里は真理の言葉通りには受け取らなかった。
 急に優介に近づいた事で疑心暗鬼がどうしても抜けきらず、真理が信用おけないと心ざわめく。
 何かあるんじゃないか。
 一度心にわだかまりができると、それは被害妄想として、どんどん膨らんでいく。
 もしかして真理は優介と──
 鋭い女の勘とでもいうべき本能で、不穏な変化を、紫絵里はすでに見抜いていた。
 だから、優介が元気に「おはよう」と登校してきたとき、真理の反応に神経をとがらせて注視する。
 いつもの真理なら、挨拶をすませば、ちらりと見てから、視線を逸らしがちに存在なくぼんやりとしてるはずだった。
 しかし、真理の瞳は熱い想いを秘めたように、深く優介を見つめ、その視線が固定されている。
 そして優介も、意味ありげに親しみを込めた笑顔を返し、はにかんで何か言いたげに口元がムズムズとしていた。
 紫絵里は思わず大声で「ちょっと、どういうこと?!」と言いそうになったのをぐっと飲み込んだ。
 明らかに前日には感じなかったものが、この日発生している。
 それは二人の間で交わされる恋の電波のように、お互いを意識した求め合うものが飛び交っている。
 自分の知らないところで何かがあった。
 紫絵里は必死に笑顔を作り、優介に話しかけた。
「試験の準備はできてる?」
「そんな、胸張って言えるほど、できてるなんて言えないよ。ちゃんとできるかも危ういのに。そういう瀬良はどうなんだ?」
「私もそんなに自信ないけど、なるようになれっていう諦めはできたかも」
「おっ、開き直ったか」
「そんな感じかな」
「真理はどうなんだ?」
 優介が真理に話を振るが、紫絵里はそれを邪魔をする。
「真理は大丈夫よ。いつも冷静で落ち着いてるし、試験の準備だって絶対怠ってないから、余裕だよ」
「えっ、そんなこと……」
 真理が否定をしようとしても、紫絵里は無視をする。
「それで、松永君はどの科目が一番やばいって思ってる?」
「やばい科目? そうだな、英語が当てはまるかな。でも、今回はなんか頑張れそう。女神が俺に微笑んでいるような気がする」
 意味ありげに優介は微笑み、ちらりと真理を一瞥した。
「女神?」
 紫絵里が良くわからないでいる傍で、真理はクスッと笑っていた。
 そこに息の合うものを感じると同時に、二人にしかわからないやり取りがあるのではと勘繰った。
「どういう意味?」
 紫絵里が問い質しても、優介は何食わぬ顔で白を切りとおす。
「別に深い意味はないよ。ただ幸運の女神が、俺を助けてくれるかもっていう意味さ」
「ふーん。神頼みするんだ」
「まあね。それで試験が終わった日に、俺は女神にお礼しなくっちゃいけないかも」
「何をお礼するつもり」
「女神が望むものなら全てさ」
「なんだか、話が変な方向に言ってるわ」
「それぐらい、神頼みなのさ」
 最後、優介はとぼけたように笑っていた。
 真理もおかしかったのか、クスッとしていたが、紫絵里は素直に笑えず、ひきつった笑みを顔に張り付けていた。
 優介がはっきりと意味を言わなかったことで、前日の放課後、真理と二人で英語の勉強をしたことを隠したいと真理にだけは理解できた。
 優介が紫絵里に真相を話さないことで、優介と秘密を共有しているようでドキドキと胸が疼いた。
 しかし、腑に落ちない紫絵里の顔が真理に向けられた時、それは水を差した。
 本当にこれでいいのだろうか。
『真理、それでいいのよ』
 ふと、マリアの声が聞こえたように思えた。
 それとも、自分で肯定したのだろうか。
 真理は背筋を伸ばし、見下ろすように座っている紫絵里に微笑む。
 紫絵里には押さえつけられたくない反抗する気持ちが態度に出ているようだった。
 余裕を見せつける真理の笑みが紫絵里には鼻に着く。
 体の中で爆発寸前のマグマを抱え込んだように、ぐつぐつと煮えたぎって、紫絵里は真理を睨み返した。
 そのきつい表情が何を意味しているかわかっていても、真理は泰然と構え、敢えて見て見ないふりをした。
 そのすぐ後、チャイムが鳴ったことで、真理は自分の席へと戻って行った。
 真理が目の前から消えると、紫絵里はほっとした。
 仲のいい友達が邪魔ものに思えるほど、自分は追い詰められている。
 もし、優介と真理がくっついてしまった時、自分はどうなってしまうのか。
 それを考えるだけで、紫絵里は今にも泣きだしてしまいそうに、絶望に襲われてしまった。
 それと同時に、許せなくなるほどに真理に憎しみも抱いてしまう。
 まだ不確かな段階でも、すでに狂気じみて我を忘れそうになっていた。
「おい、瀬良」
 優介の声が耳に入った時、紫絵里は我に返った。
「えっ?」
「さっきから呼んでるのに無視しやがって」
「ご、ごめん」
「どうした? なんか顔色悪いぞ。もしかして具合悪いのか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか。勉強のしすぎで寝不足なんじゃないのか。無理するのもわからないでないけど。気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
 気軽に声を掛けてくれ、そして気遣ってくれる優介。
 沢山の言葉を交わし、ふざけ合い、そして笑い、一緒に居ればとても楽しい。
 ここまで優介と親しく話せるのは紫絵里の他にはいないし、クラスで目立つ瑠依でも成し遂げられなかった。
 瑠依は告白して優介に振られ、その時優介は好きな人がクラスに居ると漏らした。
 そこで瑠依はそれを紫絵里と決めつけた。
 瑠依の目にも紫絵里が一番優介に近いと映ったから、そう見なし、そしてその噂が女子達の間でもちきりになった。
 紫絵里も、願いを叶える石の力もあって、彼女になれると信じていた。
 そうなるはずだったのに、真理が急にでしゃばってきてから、歯車が狂いだした。
 紫絵里が優介と一緒に居れば、そのおこぼれで真理も優介の傍に居ることになる。
 そうすれば、同じクラスに居る優介の好きな人というのは真理ということも考えられる。
 しかし、紫絵里は最後まで否定する。
 自分にはあの石がある。
 絶対に自分の思い通りになるはず。
 優介の視界に入らない時、紫絵里は目を瞑り、そうすることが必須課題のように、暇さえあればブツブツと祈りを捧げていた。
 それは憑りつかれた、虚ろな目をして唱える。
 その異常な姿は、時々クラスの女子達にも見られ、眉根を顰められながら陰でこそこそと噂されていた。
 瑠依もその様子を見ていたが、恋に破れた後はすっかり大人しくなり、表だってみんなの前では紫絵里については何も言わなかった。
 ただ、紫絵里を見ていると気になり、無視できずに、目が逸らせられないことが度々起こっていた。
 その二人の様子を見て、クラスメートの女子達は、紫絵里と瑠依がまだ対立していると思い、好き好きに二人の事を陰で揶揄していた。
 話題になるものがあるときは、口軽いものはそれに便乗してしゃしゃり出ては、いい気になっている。
 私も! 私も! と言わなければ気が済まない者、いざ悪口が言える場所ができてしまうと、人はたがが外れるのだろう。
 憶測で話が弾んでいつしかそれが固定されて真実は埋もれる。
 周りの煩さは今に始まった事ではないが、それを遠巻きに黙って見ながら、面白がってる者もいる。
 ただ様子を見守っている者もいた。
 担任の鮎川華純もその一人で、クラスのギスギスした雰囲気を感じ取ってはいたが、自分が高校生だった時の事を思い出し、どうするのが一番いいのか今は考えていた。
 こういう繊細な部分は、下手に教師がしゃしゃりでると事態を悪化させるし、よくある出来事としてどこか遠慮する気持ちもあった。
 時々紫絵里を見ては、かつての自分との相似点を感じるところがあるのか、華純はぐっとこみ上げるものを抑える。
 まさか自分のクラスでこの問題が起こったことに試練を感じながらも、今は我慢して静観することにした。 
 それはまるで少女から大人へと向かうイニシエーションの一つとして、応援してやりたいという気持ちでもあった。
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