Part 1

 十二月──息も白く吐き出され、冷たい風が頬に痛い。
 夜はさらに冷え込んで、寒さに体が縮こまる。
 でも研ぎ澄まされたシャープな冷たい空気はキリリと街を洗練し、そして点々と広がるビルの明かりを美しくさせた。
 この時期クリスマスが近づき、飾り付けのイルミネーションが幻想的に彩りを増す。
 俺は静かに公園のベンチに座り、そんな都会の夜景を楽しむ。
 時折、カップルたちが仲睦まじく前を通り過ぎていく。
 思わずため息がもれてしまった。
 俺の彼女は仕事で忙しくて、あまり構ってもらえないから、目の前でいちゃいちゃされると少し妬けた。
 俺も彼女とイブを過ごすためのいいホテルの部屋は押さえている。
 彼女がそれをいつも望み、毎年同じホテルの同じ部屋をリクエストしていた。
 今年もその日が近づいてきている。
 俺はゆっくりとベンチから腰を上げ、夜空を仰ぎ、ポツポツとかろうじて見える星を眺めた。
 その瞬間、星が流れていくのが見えた。
 瞬きすれば見逃してしまったほどの早さだった。
 なんだか俺ははっとして、流れ星を見られたことがとても運の良かった事に思えてしまった。
 一瞬の事で願いは星に直接呟けなかったが、俺はいつも心に願ってる事があるので、きっとその思いを星はキャッチしてくれたと、都合のいいようにとらえた。
 俺の願いは……
 俺は笑みを浮かべながら、そのことを考えていた時、急に男女が言い争う声が耳に入り、そっちに気がとられた。

「どうしてなの? 敦はいつも大事な事私に言わないよね」
「だから、謝ってるじゃないか。ごめん」
「そうやっていつも謝れば済むと思ってるんでしょ。もういい」
「おい、待てよ、香歩。そんなに怒る事ないだろ」
「敦は何もわかってないんだから」
「おい、香歩!」
 敦と呼ばれていた男は、自分の彼女である香歩を引き留めようとしていたが、香歩は振り向きもせずに感情に流されたまま、敦を置き去りにして行った。
 彼女もまた意地を張り過ぎて、後には戻れなかったのだろう。
 その性格は俺の彼女と重なるところがあるから、不器用なその姿に親しみすら覚える。
 思わず笑ってしまうが、決して馬鹿にしている訳ではなかった。
 むしろ、懐かしくて愛おしい気持ちで微笑んでいた。
 そんな俺の顔に気が付いた敦は、恥ずかしかったのだろう。
 持って行きようのない感情を俺に向けて睨みながら、舌打ちして踵を返した。
「おい、敦、ちょっと待てよ」
 俺にいきなり名前を呼ばれた敦は、意表を突かれて振り向いた。
 薄暗い中で目を凝らして俺を見つめるが、全然見覚えがないから余計に混乱している。
「だ、誰?」
「俺は淳だ」
「ジュン? えっ? 俺とどこかで会った事あるのか?」
「ううん、ない」
「だったら、気安く俺の名前呼び捨てて話しかけてくんなよ」
 『敦』と『淳』。
 漢字にすればちょっと似ていると俺は思った。
 『香歩』という名も俺の彼女と被るように思えた。
 だから俺は放っておけなかった。
 敦は不思議そうに俺を見て、一体どうすべきなのか迷ってる。
「一体、なんの用だよ」
「お前さ、ラベンダー持ってるだろ」
「えっ、ラベンダー?」
 敦は頭に疑問符を乗せながらも、確認するためにピーコートのポケットに手を突っ込み、手に触れた何かを取り出した。
 小さな布袋を持った敦は不思議そうにしていたから、俺は説明してやった。
「それ、サシェっていう香り袋さ。そこにはラベンダーが入ってるのさ。きっとお袋さんが、虫よけにそれをコートに忍ばせてたんだろ」
「虫よけ?」
 敦はクンクンと自分のコートの匂いを嗅いでいた。
「安心しろ、別に臭くはない。寧ろいい香りだ。それにラベンダーは魔法のハーブでもある。俺が声を掛けたのも、そのラベンダーの香りがしたからさ。有難く思え」
「どうして、見知らぬ他人に声を掛けられて有難く思わないといけないんだよ」
 敦はサシェをまたポケットに突っ込み、落ち着かない表情で俺を見ていた。
「さっき、彼女と喧嘩してたけどさ、一体原因は何だ? これも縁だ、俺が愚痴を聞いてやるよ」
 敦は逡巡していたが、迷った挙句、結局は聞いて欲しくて俺に吐き出した。
「見ず知らずの人に言うのもなんだけど実は……」
 長くなりそうなので、俺は敦をベンチに誘導し、そこで適当な距離を開けてお互い座った。
 腰を下ろして敦は落ち着いたのだろう。
 耳を傾けてる俺に、すんなりと心を開いて一部始終を静かに語りだした。
 俺は黙ってひたすら聞く。
 時々、通りすぎていく人たちは、一人語りをしている敦に一瞥を向けていた。
 敦は人から見られていても気にすることなく、焦点の合わない目を前方に向けて話し続けた。
 話しの終わりで溜息を添えると、俺の反応を窺っていた。
 俺は軽く「ふむ」と同じく一息つく。
 本人に取れば切実な悩みで深刻そうに語っていたが、簡単に言えばクリスマスイブの過ごし方の食い違いだった。
 要するに香歩としては豪華なホテルでロマンティックに過ごしたいという事だった。
 できるだけその希望通りにと、敦は早くからバイトにいそしんでいたが、お金が思った程貯まらなかった。
 学生だから仕方がないが、それがかっこ悪く、ホテルは予約が一杯でどこも取れなかったとつい嘘をついてしまった。
 その気持ちもわからないではない。
 結局俺にはその悩みは微笑まし過ぎた。
 その仕返しに少しだけ辛辣に言ってやる。
「そんなの彼女には嘘だとばれてたんだよ」
「えっ、ばれてた?」
「ああ、バレバレだ。だから、土壇場でわざと口実を作る男らしくない敦に失望したんだろう。それで『わかってない』って言ったんだと思う。体裁を繕う嘘よりも、正直に言ってほしかっただけさ」
 敦は下を向いて憮然としていた。
「俺、プライドもあって、つい彼女の前では無理してしまって、自分の体裁を守ることしか考えてなかった」
「それだけ彼女が好きだから、つい背伸びしてしまうんだろ。わかるよ、その気持ち。俺もそうだったから。俺の場合、愛しすぎちゃって、俺以外好きになるなって、彼女を束縛し過ぎてるかもしれない」
「淳さんの彼女ってどういう人なんですか?」
 敦に質問されて、俺は一瞬返事に困ってしまったが、俺の知ってる限りの事をつい話してのろけてしまった。
 香歩に性格が似てるという事もいうと、敦も俺に親近感を抱き、笑みを俺に向けた。
「お互い苦労しますね」
「そうだな」
「淳さんに声を掛けて貰って、なんだかすっきりしました。俺、彼女に謝ってきます」
 急に立ち上がり、すぐさま走り去ろうとする敦を俺は引き留めた。
「待てよ。そう慌てるな。もう少し俺に付き合え。いい方法があるんだ。今からでも予約が取れるホテル教えてやるよ」
 俺は前方を指差した。
「えっ、あそこは高いじゃないですか。予約取れても俺、そんな金ないです」
「でも、あそこの支配人と俺はかなりの仲でな、俺の名前を出せば、きっとなんとかしてもらえると思うんだ。ラベンダー持ってるだけに『期待』を持て」
「ラベンダーで期待?」
「ああ、花言葉なんだ」
「そんな事良く知ってますね」
 半ば感心しながら、敦は俺の顔を見ていた。
 俺は、その後、期待を抱いた敦にそのホテルの支配人との連絡の仕方を教えた。
 俺が敦に勧めたホテルは有名で、誰もが一度は泊まりたくなる高級感がある。
 そこで働く支配人は40歳そこそこでまだ若いが、従業員に慕われて有能な奴だ。
 客のニーズに答え、快適な一時を過ごせるように気を遣い、従業員の教育も徹底している。
 俺の事も良く知り、俺の名前を出せば支配人は柔軟に敦に部屋を宛がう事だろう。
 あのホテルにはクリスマスイブの日に一つだけ必ず部屋が空いているのを俺は知っているからだ。
 敦も香歩も幸せな一時を過ごして欲しい。
 かつてそこで過ごせなかったカップルのためにも──。
 あの支配人ならきっと理解してくれる。
 流れ星、ラベンダー、敦、香歩というキーワードが揃い、俺はこれから奇跡が起こると信じて、ホテルをじっと見つめていた。
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