Side亜藍 後編 5
俺達には他に道があったのだろうか。
俺は子供過ぎて、その先のことが咄嗟に思い浮かばなかった。
もし俺がここにずっと住むことができたなら、俺ははっきりと自分の気持ちを伝えようとしただろう。
感情のままに突っ走り、奈美が素直に俺を受け入れなかったとしても、開き直って何度でも俺は好きと言っていたことだろう。
もし俺が立派な大人だったら、文句なしに奈美の側に居ることを選んでいた。
仕事をバリバリにこなしてお金を稼ぎ、奈美が喜ぶものを愛の証としてプレゼントしていたことだろう。
だが、一番言いたい”もし”はこれに尽きる。
もし俺が普通の日本人なら、俺はこんなに悩むこともなかった。
俺はまだまだ世間のことを何も分かっていない。
いつも先へ進むことに躊躇して、何が待ってるか分からない未知のその先で傷つくことを恐れてしまう。
それは俺がまだ子供だからだと思う。
でもそうだからといって、その理由に甘んじているだけでいいのだろうか。
この先、年月が過ぎれば大人になるのは確実だ。
その時も今と同じように躊躇して先に進めなかったらどうするんだろう。
うじうじといつまでも煮え切らない俺の姿が簡単に想像できてしまうから怖い。
奈美はいつもそんな俺を引っ張ってくれた。
日本の文化に慣れてなくて、良く分からなかった俺には奈美の言う通りにしているのは楽だった。
奈美が思うようにならずに機嫌を損ねても、怒られても俺は奈美の後を着いて行くのが好きだった。
でももうこれからは、自分で歩まなければならない。
自分のためにもこれで良かったのかもしれない。
ぐだぐだと色んな理由を並べてみたが、実はそう思わないとやっていけそうもなかった。
好きなのにどうすることもできずに離れないといけないなんて、胸を引き裂かれるくらい辛い。
奈美を抱きしめたあの感触を思い出すと、胸がキュッと締め付けられて息苦しくなってくる。
犬に噛まれて大怪我したときよりも、このときの方が数倍も胸が痛かった。
暗闇の夜道を歩きながら、頭が重くなるほどに取りとめもなく考えていると、悩みはどんどん大きくなってこの夜の暗さに負けないくらいの暗黒の世界に落ち
ていきそう
だった。
ダースベーダーもダークサイドに落ちるときはこんな気持ちだったのだろうか。
大バカ者は、こんなときにでもバカなことを考える。
だけどそれは何かに例えて考えると少し気が紛れるのをただ願ってのことだった。
家に戻り、ドアを開けると樹里が意味ありげな笑みを浮かべて「おかえり」と玄関に寄って来た。
「なんか言いたそうだな」
俺が靴を脱ぎながら呟くと樹里は「ふふーん」とだけ鼻を鳴らしてわざと強く目を細めて笑った。
俺が奈美を追いかけたことを気にしていたみたいだった。
「言っとくけど、何もなかったから」
「やっぱりね。お兄ちゃんは石橋を叩いて渡らないタイプだもんね」
「えっ、そのことわざ間違ってるぞ」
「ううん、間違ってないよ。お兄ちゃんは用心深くても先に進まないからね」
「放っておいてくれ」
「でも、お兄ちゃん、夏にフランス行くこと奈美ちゃんに話したんでしょ」
樹里は突然心配そうな表情で話を振ってきた。
「まあな」
「そっか」
俺に同情するかのように寂しげに樹里は呟いた。
樹里はそれ以上何も言わなかったが、どこかで俺と奈美のことを応援してくれている節があった。
その先は自分が何も言えないのを樹里はよく理解していた。
キッチンに入れば、夕食が出来上がったところだった。
帰りが遅い父を抜きに、先に食べようと母がニコッと微笑む。
母もそういえば昔、留学を済ませ日本に帰る頃になって、父と出会って恋に落ち、その先をどうしていいのか分からなかったと言ってたことがあった。
遠距離恋愛になると、いつまた会えるか分からないだけに別れた方がいいのか大いに悩んだらしい。
その時はふーんと聞き流していたが、今はその気持ちが理解できるような気がする。
夕食を食べ終わった後、宿題に取り掛かる。
ついぼーっとして、集中できないでいた。
先に風呂に入ってさっぱりしようと風呂場に向かうと、樹里も入ろうとしていたのかばったりと脱衣所で出くわしてしまった。
「お兄ちゃんもお風呂? じゃあ、先入って」
樹里はあっさりと俺に順番を譲ってくれた。
この日のことに対して同情でもしてくれてるんだろうか。
「あっ、そうだ。お兄ちゃんもこれ使う? 今日、奈美ちゃんがくれたの。手作り石鹸だって。すごくいい匂いなんだよ」
樹里は石みたいな黄色い塊を無造作に俺に手渡し、そしてさっさと去っていった。
匂いを嗅げば、確かに爽やかなレモンの香りがする。
これが衝動買いをしたと奈美が言っていた石鹸か。
これだけいい香りだと衝動買いしたくなる気持ちも充分理解できた。
そして駅で奈美が取った行動を思い出した。
背中を丸めて、この石鹸を手にとって匂いをあの時嗅いでたんだ。
俺はその石鹸の香りにとことん魅了され、何度も匂いを嗅ぐ。
そして裸になって風呂場に入ると、お湯につけてまずは手のひらで泡立ててみた。
風呂場一杯にレモンの香りが広がった。
レモンというよりも、レモネードのように甘酸っぱくさっぱりとしたキレがある。
ストローで一気にレモネードを飲んでいる気分になってくる。
それはどこか恋しくて、切なくて──。
その思いにもし匂いがあったなら、きっとこの石鹸の匂いのように香るんだろう。
この石鹸を泡立てて奈美を思えば、一層香りが風呂場に充満して切なく胸がきゅっと締め付けられる。
俺はその香りを体に刷り込ませるように、力強くこすり付けて洗った。
洗い心地もよく、きめ細かい泡が肌を包み込んでいく。
風呂から上がった後でも、しっかりと肌から爽やかに香っていた。
奈美が側にいるような気持ちにさせてくれる。
その香りに包まれて、俺は残りの宿題に取り掛かった。
俺はこの先も勉強しないといけない。
自分の力で物事を進めていけるようにしっかりとして、色んな事を学んで今よりも成長したいと思う。
きっとその時大人になっていて、このとき抱いた気持ちを懐かしく思うのかもしれない。
もし俺がしっかりとした大人になっていたら、それを奈美に報告しよう。
奈美はきっと喜んでくれると思う。
だから俺は、奈美を喜ばすためにもこれからしっかりしなくっちゃいけないんだ。
レモネードの香りが仄かに自分から匂ってくる。
それを鼻で思いっきり息を吸って、そして俺は机に向かって必死に勉強しだした。
将来の自分をイメージしながら──。
そして、その時俺の姿を見て微笑んでいる奈美の姿も一緒に想像していた。
奈美の顔を思い浮かべているとふと頭によぎった。
この先の可能性は色々だ。
今はどうすることもできなくても、未来の俺はきっとしっかりとして自分で判断できるに違いない。
それなら、その時俺は奈美に会いに来ればいい。
それまでずっと連絡を取ってこの絆を繋げておくのだ。
もしかしたら奈美はその時好きな人がいるのかもしれない。
しかし、俺は頭を横に振った。今からそんな弱気では意味がない。
俺は立派な男になってその時胸を張れるようにしっかりしないと。
そうすれば奈美はきっと俺をもう一度見てくれる。
そして俺はその時言うのだ。
奈美のことが大好きだと──。
それは奈美が消しゴムを拾ってくれたときからずっと持ち続けていた俺の思い。
暫く会えなくなるが、あの時から持ち続けていた気持ちは膨れることはあっても途切れることは決してない。
だからもし俺が立派な大人になったら、奈美にしっかりとこの思いを伝えればいいだけのこと。
レモネードの香りがまだ優しく仄かに香る中、難しい方程式が解けたように俺はなんだか気分が晴れた。
この調子で一つ一つ階段を上るように進んでいけばいい。きっと自分の思う先へ行けるはず。
そう思うといつもよりやる気が出て、俺は笑顔で勉強していた。
La fin