レモネードしゃぼん

その後 後編 1


 一通り頭からつま先まで洗い、樹里はゆっくり湯船に浸かっている。
 安堵から漏れる息を一つ吐き、何気なくシャンプーなどが並べられる棚の部分をふと見たとき、端に小さくなった黄色い塊が置かれているのに気がついた。
 以前、奈美からもらったレモネードの香りのする石鹸だった。
「かなり小さくなったな。お兄ちゃんが使ってるんだ」
 樹里は一度だけその石鹸を試したが、普段は液体のボディソープを使っているので、その後はすっかり忘れていた。
 その小さな塊を手にして、匂いを嗅いでみた。
 小さいながらも、まだまだレモネードの香りがしている。
 自分ですらその存在を忘れていたのに、亜藍がそれを使っている事で奈美が持ってきたことを意識してるんじゃないかと、樹里は小さな石鹸の塊の中から兄の思いを読み取る。
 酸っぱくて、爽やかな清涼さだが、それでいて亜藍と奈美の二人の行く末を思うとやっぱり切ない香りに感じてしまう。
 亜藍が奈美を思っている切ない気持ちが、その小さな塊を通じて目に見えてくるようだった。
「なんだか物悲しい石鹸だ」
 小さな塊をまたそっと元の位置に戻した。
 やっぱりなんとかしてあげたい。
 そう思うが、自分はこれ以上何も出来ないと悟り、諦め気味になったとき、突然何かが閃いた。
「何もできないけど、何かの役には立つかもしれない。いや、まあそうなるといいけど私の願いってことでそこへ二人を連れて行くのもいいかも」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら急に心湧きだって来る。
 まだまだチャンスの連休は残っているとばかりに、樹里は風呂場の中でお湯をバシャバシャ叩きながら気持ちを高ぶらせていた。

 その次の日、樹里は奈美に電話で連絡して昼から出かける約束をする。
 遅い朝食を取りながら側でその会話を聞いていた亜藍は、いやに張り切っている樹里を不思議そうに見つめていた。
 電話を切るなり、樹里は亜藍に振り返る。
「という訳で、お兄ちゃんも一緒に行くんだからね」
 もぐもぐと食べていた口が止まり、それを咀嚼してから亜藍は言った。
「どこへ?」
「神社」
 樹里が一言そういうと、亜藍の返事も聞かずその場を去っていった。
「変な奴」
 一言ため息混じりに漏れると、行くか行かないかはっきり言わないでも、ただ樹里に引っ張り回される午後になるだろうと予測した。
 予定もなかったので亜藍はどっちでもよかったが、奈美も行くとなれば行かない方がおかしい。
 そこが例え自分の好きじゃない場所だったとしても、とりあえずはついていく。
 亜藍は深く考えずに黙ってついていくが、その場所に来たとき樹里の気遣いに気が付いた。
 そこには『えんむすび』と書かれた赤いノボリが風でひらひらと揺らいでいたのだった。

 連休中は運良く晴天に恵まれ、この日も青空が広がっている。
 連休で人が街中に流れ込む中で、この神社は知る人ぞ知る部類なのか、人通りも少なく静かなものだった。
 寂れてはいたが、どこも人で混雑する時期に、静かにゆっくりとできるのは有難い。
 三人は青葉に囲まれた境内を気分よく歩いていた。
「遠足に来たみたいで歩くのも気持ちいいね」
 奈美が言った。
「でしょ。連休だからって別に旅行に行けるような立場でもないし、家に居てもつまらないしさ、こういう神聖な場所でスピリッツを感じながら歩くのもいいかなって思ったんだ」
 樹里がいかにも気分転換らしい理由をつけているが、赤いノボリにしっかりと「えんむすび」と書かれているし、それのための願掛けの絵馬も飾られている。
 それらを見れば、ここに連れてきた理由は明白だった。
 わざとらしいと亜藍は思いつつ、敢えて何も言わない。
 それを口に出すのも、自分がその気持ちに気がついていると知られるのも亜藍は嫌だった。
 樹里の気遣いは感じ取れても、無理をしてそれに答えるのは解決に向かわない。
 亜藍もなるようにしかならないとただ青い空を見つめ、何も知らないフリをして「気持ちのいい日だ」と相槌を打っていた。

 奈美もまた樹里の気遣いに気が付いている。
 樹里が動いてくれることで、自然に亜藍と付き合えることに感謝しながらも、ただじっとこの時を見つめる。
 今までが恵まれすぎて、それが当たり前に思っていたことをぼんやり考えながら、ただ空を見ていた。
 白いふわっとした雲が、青い空で微妙に形を変えながらゆっくりと流れていく。
 何も考えずに流されてきた自分を雲に例え、これからは否が応でも何かが変わっていく姿を見せられたような気になっていた。

 亜藍も奈美も何も言わずに空を見つめて歩いている様子に樹里は二人がどこか大人びた顔をしているように見えた。
 二人とは年もそんなに変わらず、特に一緒に住んでいる自分の兄と比べたら樹里の方がいく倍も大人びていると思っていたが、そんな二人の悟った顔を見ていると、自分がいかにも子供っぽく感じてならなかった。
 お互い心が通じ合うほどに好きになってしまったら、無理に言葉を口にして行動に移すことよりも、落ち着いた気持ちでお互いを見つめることで精一杯になってくるのかもしれない。
 それがお互いを思いやった、この時でしか味わえない恋なのかもと、樹里は勝手に解釈する。
 そんなこと自分が思っても、二人のためだと行動しても、結局は本人同士にしかわからないことである。
 だから樹里はその気持ちを尊重するように、神頼みという道を選んだ。
 どうすることもできないのなら祈るしかない。
 縁結びの神様がこの二人を見たらどう思うのか、それに賭けてみたといったところであった。
 やるだけのことはやった。
 樹里も神様に委ねることで後は温かく見守る姿勢になっていた。
 だから、次に思いも寄らない展開になって驚いてしまう。
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