レ モネードしゃぼん

Side奈美 前編 1

 平凡、ヘイボーン、ヘイヘイボーン。
 思わず退屈で即席平凡ソングなどを頭の中で勝手に歌う。
 学校帰りに覗いた自然派化粧品という名目のショーウインドウに飾られた手作り石鹸がとても美味し そうで、ついフラフラと入ったのが私の何かを変えた。
 4月も終わりに近づいた高校二年生になったばかりの私、湊奈美(上から読んでも下から読んでもミナトナミ)はこのとき目に付いたものに魅了されて衝動的 に足が動いてしまった。
 店に一歩踏み込めば「いらっしゃいませ」と明るく迎えられ、色とりどりの商品がまるでクレヨンで絵を描いたように目に飛び込んだ。
 ゴーダチーズのような大きな塊の石鹸が積み重なったエリアを覗き込んで、無造作に切り分けられていたその破片を手にとって匂ってみる。
「レモネードみたい」
 柔らかな酸っぱいレモンの香りが鼻腔に心地よく流れていく。
 石鹸なのについ口にしたくなるような味覚をつつかれた。
 他にも色々と手にとって匂ってみれば、どれもいい香りがして気分まで良くなってくる。
「石鹸をお探しですか?」
 鼻にピアスがある茶髪のちょっと派手めな店員が寄って来た。
「いえ、その、なんかついふらふらっと来てしまって」
 別に買おうと思ってはいなかったが、制服着ているので高校生だしおかっぱ頭で顔もまだ子供っぽく幼いから真剣に接客されるとも思わなかった。
 それでも店員はとても愛想のいい笑顔をたっぷりと注いでくれた。
 石鹸の香りとその店員の爽やかな笑顔がふと購買意欲に火をつける。
 買ってもいいかな。
 特にこのレモネードのような香りが気に入った。
「あの、これ下さい」
 思わず石鹸の塊を持って店員に向けてそう言っていた。
 自分でもなぜだかわからなかったが、この石鹸の匂いが平凡な何かを変えてくれそうな気になった。
 それくらい印象に残るほど爽やかに香っている。
 店員は「ありがとうございます」とにこやかに答えてその石鹸を量り、値段を教えてくれた。
「1380円です」
 思わず内心「げっ、高い」と思ったが今更やめておきますなんて言えない。
 財布に入っていた二千円を取り出して、店員に渡した。
 返って来たおつり620円。
 今月一杯苦しいなとそっと小銭を財布に戻した。
 たかが拳大くらいの小さな石鹸一個だったが、包装紙で丁寧にくるんで大げさに店の名前が入った小さめの紙袋に入れてくれた。
 それを受け取り店を出る。
 こんなに高い石鹸買ってどうするのと自問自答しながら、私は家に帰るために駅に向かった。
 でもレモネードの香りを思い出すと、電車に揺られながら今夜この石鹸を使うのが楽しみと紙袋を握る手がウキウキしだした。
 たかが石鹸一つごときだが、シャンプーでもそうだけど新しいものを試すとき、自分が綺麗になるような錯覚を覚えてしまう。
 だから平凡な日々を香りのよい石鹸が少し刺激を与えてくれる。そんな気がしていた。
 そして自分の駅について改札口を出たとき声を掛けられ、早速いつもと違う瞬間に出遭わせて私はビクッと驚いた。
「ミナトナミさん?」
 私が振り向くとそこには見たこともない女の子が立っていた。この人誰?
 でも女の子が着ていた制服には見覚えがあった。
 この町の地元の公立高校の制服だった。
 私はキョトンとしたまま、その女性を暫く見つめる。

 濃いグレーのブレザーにプリーツが入ったスカート、そこにえんじ色のリボンが胸元についている。
 その制服は頭が良くなければ入れない高校のものだから、その女の子もインテリという匂いがプンプンする。
 セミロングのキューティクルが揃った艶のある黒髪。
 ぱっちりとしたお目目にうっすらとピンクの頬はかわいい女子高校生そのものだった。
 しかし足元が少し震えているのか、落ち着いていない。
 覚悟を決めて自分に声を掛けてきたようだった。
 一体何の用だろうと、やっぱりまだじっと見つめたまま、相手の出方を待って首を傾げてみる。
「あ、あの」
 やっと女の子が声を出した。
「はい?」
 私が返すと女の子は一層緊張していたが、一瞬後ろを振り向いて周りを見てから体に力を一杯込めて話しかけてきた。
 大事な仕事でもするかのように失敗できない切羽詰った目つきが、突き刺さるようにきつくなった。
「湊さんは森宮君のことどう思ってるんですか?」
「えっ? 森宮君……」
 亜藍(アラン)のことだった。
 どうして亜藍のことを聞かれるのだろう。
「亜藍がどうしたの? それにあなた誰?」
 私にはちんぷんかんぷんだった。
「私、麻木と言います。森宮君のことが好きなんです!」
 その台詞を吐いた後、言い難いことを言っちゃったというような慌てた顔をしていた。
「はっ?」
 なぜこの人は亜藍が好きと私にわざわざ告白するのだろう。それなら本人に言ってくれよ。
 でも私は何も言えなかった。
 このときは驚きすぎてただ麻木と名乗った 女の子をじっと見ていた。
 通勤帰りのサラリーマンやOL、通学帰りの他の学校の生徒も沢山通り過ぎていく。
 その中で道路に置かれた工事のお知らせの三角のコーンのように、皆に避けてもらいながら私と彼女は立っていた。
 彼女はそれから私の出方を待っていたのか何も言わなくなったので私が亜藍との仲を説明する羽目になった。
「あのさ、亜藍は幼馴染というのか、ご近所さんというのか、私には何も関係ないんですけど」
「それは森宮君のことは好きじゃないってことですか?」
「好きとかそういうのじゃなくて、それ以前の問題のような。最近あんまり会ってないし」
 私が困った顔でどう答えて言いか戸惑っていると、彼女もじれったく感じたのかその後の言葉を言い出せず早く去りたいとばかりに謝った。
「大変失礼しました。ごめんなさい」
 そう言って改札口に向かって走ると駅の中に消えていった。
 一体あの子は何をしたかったのだろうか。首を傾げてそのポジションが変えられないくらい不可解のまま家路に向かう。
 変なの。これも石鹸買ったせいなのかな。
 紙袋の中から石鹸を取り出して、そして匂いを嗅いでみた。
 かすかに包装紙からレモネードの香りがする。
 いい匂いだけれど、なんだか酸っぱくて寂しくなるような気持ちが突然こみ上げた。
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