Side奈美 後編 1
「相変わらず、犬嫌いだね」
去っていく犬を見つめながら、私が小さく呟く。犬を見ると避けて通れない話題だった。
「ああ、肉を食いちぎられるほど噛まれたら誰だって嫌うはずさ」
ぼそりと亜藍が答えると、私の脳裏にはあの事が蘇る。
亜藍と学校の帰りに、一緒に神社の境内で遊んでいた小学四年の夏の夕暮れ時のこと。
そこに犬が迷い込んできた。
中型の尻尾がふさふさとした白い犬だった。
私は給食の残りのパンがランドセルに入っていることを思い出し、取り出して犬にあげようと、ランドセルが置いてあるところまで走ろうとする。
亜藍がやめろと咄嗟に手を引っ張っ
た。
歯をむき出して唸ってこっちを見ていた犬になんの危機感も抱かなかった私は、餌をあげればきっと懐いてくれるとそう信じて止まなかった。
だけど怯えきっていた犬は餌を貰って懐くような正常な思考を持たずに、私と亜藍を完全に敵と見なしていた。
亜藍はひ弱なのに、私を守ろうと勇敢にも庇ってくれていた。
それなのに私は言うことも聞かずにどうしてもパンをあげたくて、亜藍が掴んだ手を振り払ってランドセルを取りに走ってしまった。
急に動いた私に、怯えきった犬は襲い掛かるように向かってきた。
「奈美、危ない」
亜藍が咄嗟に落ちていた枝を拾って、犬に向かって威嚇したもんだから、犬の怒りは亜藍に向いた。
そんなことをすれば犬はどんどん刺激されて攻撃態勢になってしまう。
それを分かっていながら亜藍は私を守ろうと必死で枝を振った。
頼りない小さな細い枝だったのに戦える武器がそれしかなくて、危ないと分かっていても私を助けるためだけに向かっていったように思えた。
そして悲劇は起こった。
犬は亜藍に飛び掛かり、半ズボンを穿いていたため何も覆っていなかった素足のふくらはぎに激しく噛み付いた。
亜藍は驚きと激痛に「ギャー」と天にまで響くような声を上げた。
私もびっくりして「キャー」って声を出したと思う。
亜藍の足は見る見るうちに赤くなっていくと、対照的に私が青くなった。
私は亜藍を助けたくても助けられず、怖くて泣きじゃくりながらその場で怯えているだけだった。
亜藍は泣き叫び、犬に襲われるまま無茶苦茶に噛み付かれ、その光景は当時の自分には悲惨すぎる光景だった。
たまたま側を通った大人達が子供の叫び声に驚いて駆けつけてくれて、大人が咄嗟に犬の鼻を蹴り上げたので犬を亜藍から引き離すことができた。
亜藍は足から大量の血を流し地面の上で倒れてぐったりとしていた。
私は側に駆け寄り、我を忘れて大声で叫んでは取り乱していた。
後で知ったが、あの白い犬は飼い主に虐待されて怪我をしていて、元々凶暴な性格だったらしく、飼い主が処理に困って離したのが原因でこういうことになっ
てしまった。
私はあの時声が涸れるくらい泣きじゃくった。
亜藍が死ぬかと思って、そしてずっとずっと亜藍の側から離れなかったと思う。
大人は私も怪我をしたと思ったから救急車に一緒に乗せられて病院に行った。
本当に怖かった。
亜藍の受けた傷も血が一杯出て恐ろしかったが、あの時自分の子供が大怪我したと連絡をされた亜藍のお母さんも、そして私の母も恐怖におののいて病院に駆
けつけた顔を見て、その事の大きさに押しつぶされそうになってさらに震えたくらいだった。
全ては私のせいだから、子供心ながらどう償っていいのか教えて欲しいくらい亜藍に謝った。
亜藍は目に涙を一杯溜めて、顔は足の怪我の痛さで歪んでたけど決して私を責めなかった。
万が一のためにと一杯注射を打たれたと後で本人の口から聞いたが、きっとそれは狂犬病予防と破傷風の注射だったに違いない。傷口も深かったために何針か
縫う結果になったので、その時の麻酔の注射もあったことだろう。
そんな痛い思いを一杯したのに、亜藍は私を責めなかった。私だったらあんたのせいなんだからと恨みつらつらにぐちぐち言ってただろうに。
だけど亜藍は一生懸命耐える本当に我慢強い子供だった。
今もその傷は残っているのは知っている。
私は亜藍の足をじっと見つめていた。
「ごめんね。これだけは私のせいだから」
「犬を見る度に何度謝るんだよ。もういいって言ってるだろ。それもあれから何年経ってるんだよ」
「だって、亜藍に一生残るような傷を負わせたのは私だから」
話が変わってもなんだかまた違う空気が流れていく。
「もういい加減にそのことは忘れてくれないか。それよりも覚えていて欲しい肝心なことを忘れやがって」
「肝心なこと? 私、他になんかしたの?」
「いや、別になんでもないよ」
亜藍と会話がどうも噛み合わない。私はなんだかイライラしてきた。逆切れという奴。
亜藍はいつもはっきりと私に言わないから、こういうことはよくある。気の短い私は曖昧にされるともどかしくなって切れやすくなるのである。
「ねぇ、さっきもなんか言いたいことあったのに言わずにいたけど、もっとはっきりといってよ。怒ってるんなら怒ってるって言ってくれなきゃわかんないじゃ
ない。亜藍はいつも
我慢して最後は折れてしまって溜め込む体質なんだから」
「別に怒ってはないけど、俺が折れるってことは分かってるんじゃないか。それなら奈美ももっと素直になれよ」
「何に素直になるのよ」
「全てにだよ」
「だから、私に分かるように言ってくれないとわかんないって言ってるでしょ。亜藍だって大事なところ飛ばして私に理解しろってそれおかしいよ。はっきり言
わないところは昔っからそうだったよね」
なんだかまた変な流れになって今度は喧嘩のようになってきた。
なんでこんな風になっちゃうんだろう。
自分が意地を張ってるからこういうことになるのは分かってるけど、分かっているのにどうしても変えられなかった。
亜藍は諦めたようにふーっと息を漏らすと、寂しげな瞳を私に向けてぼそっと言った。
「俺がもし居なくなったらどうするんだよ」
「えっ? どういうこと? 亜藍はすぐに例えで話すから、わかんない。いつも、もしこうなったらどうするんだよって、そればかりじゃない。だからはっきり
言ってって言ってるじゃない」
「俺だってはっきりとしたいから、まずそうやって奈美がどう思うか知りたいんじゃないか」
「そんなの、そうなってみないと答えなんて出せない。もしっていう言い方私は嫌い」
ぷくっと私の頬が膨れると、亜藍はそれをじっと見つめて最後まで素直にならない私にため息をつくように息を吐いた。
そして眼鏡の位置を指で押さえて整えるポーズが、言いたくないことをこれから言うんだと知らしめているようだった。
「それじゃ、はっきり言う。俺がこの夏引っ越すんだよ」
「えっ? 亜藍、引っ越しちゃうの? 嘘だ。だっておばさんも樹里ちゃんも何も言ってなかったよ」
「だから俺だけ、引っ越すんだ」
「なんで亜藍だけが引越しなの? それにどこへ行くのよ」
「フランス」
てっきり冗談だと思って、気がついたら私はお腹を抱えて笑っていた。
亜藍は冷静に真剣な顔つきを私に向けた。
「俺、ずっと黙ってたけど、国籍はフランスなんだ」
その言葉で私の笑いはピタッと止まり、悪いブラックユーモアかと思って今度は呆れそうになったが、亜藍の寂しそうな目はどこまでもどんよりと沈み込んで
いったのを見る
と、笑いどころか息まで止まってしまった。