Side奈美 後編 3
『今、何してるんだ?』
何よ、人の気も知らないで、暢気にメールなんかしてきて。
亜藍がどんな気持ちでメールを送ってきたか考える暇もなく、私はそのときの感情に流されたまま心の気持ちを携帯に打ち込もうと指が忙しく動き出す。
『怒ってるんだから』
勢いでそんな言葉を打ってしまったけど、亜藍が悲しげに見つめたときのあの瞳が脳裏をよぎり、送信ボタンを押す前に手元がふと止まってしまう。
あんな寂しげな目をして私に知らせてきたというのに、なぜ私は怒りを亜藍にぶつけなければならないのだろう。
私が怒ってることって一体何に怒ってるんだろう。
亜藍が自分よりも背が高くなってたこと?
亜藍が遠くへ行ってしまうこと?
亜藍がずっとフランス国籍を隠していたこと?
どれも違う。
主語は亜藍じゃない。
私が亜藍を他の女の子に取られたくなくてもどかしさから腹を立てている。
私が亜藍と離れてしまうことが気に入らなくて腹を立てている。
私が亜藍に気持ちを伝えられなくて腹を立てている。
全ては私が素直になれなくて腹を立てている。
自分の思うようにならない展開がだた気に食わないだけで、亜藍は全く関係がない。
私はいつも自己中心で、亜藍の前ではそれを最大限に発揮してしまう。そして亜藍が無条件に受け入れて私をなだめてくれるって分かってるからそれに慣れ
きって甘えすぎていた。
何気ない短い言葉の中に亜藍の優しさが込められている。
そのメールの言葉を見つめていると、亜藍の気持ちが痛いほど胸に響いて涙が取りとめもなくこぼれてきた。
心は悲しみ色に染まってじめじめと湿気を帯びたように広がって、お腹の溝にまでその悲しさが引っかかると、今度はそれが暴れてしゃっくりのように何度も
こみ上げてきた。
なんだか痛いほど悲しくて、小さな子供がこけて火がついたように泣きじゃくった。
誰も居ない薄暗い家の中で泣いていると、深い森の中で迷って誰も助けてくれない絶望感に似た気持ちになってくる。
だからまた携帯のメール着信音がなったとき、暗い森の中で灯りを持って誰かが探しにきたように思えた。
涙で滲みながらその画面を見ればやっぱり亜藍からだった。
『なんで電気つけないんだよ』
えっ、なんで分かるの?
私ははっとして椅子から立ち上がり、道路に面したキッチンの窓のレースのカーテンを手でよけて外を見た。
亜藍が携帯を握って玄関の門の前に立っていた。
「亜藍!」
玄関に走り、慌ててそこにあったサンダルを足に引っ掛けてドアを開けて外に出た。
日が暮れかけた薄暗い中で亜藍の色白の肌がぼわっと見える。
「まだ怒ってるのか? 俺が悪いんだったら謝るからいい加減に機嫌直せよ」
まただ。
また亜藍は自分が悪くなくても私のために折れてくれる。
亜藍はいつもそうだった。
ゲームで勝てなかったとき悔しくて機嫌が悪くなった時も、亜藍はもう一回しようと言って次はわざと負けてくれる。
私が学校で嫌なことがあって機嫌が悪いときも、亜藍は必ず私の肩を持ってくれて一緒に相手が悪いと言ってくれる。
私が一人腹を立てて亜藍を無視しても、亜藍はしつこく機嫌を伺って最後までなだめてくれる。
お人よしの亜藍。
益々涙が止まらなくなった。
「おいおい、何泣いてんだよ。強情で素直じゃない奈美ちゃん」
本当に困ったときだけ亜藍は私のことをちゃん付けで呼んで様子を伺う。
「亜藍……」
私は門を静かに開けて亜藍の前に立った。
亜藍は笑うべきなのか、すましているべきなのか、戸惑ううちに奇妙に表情が秒刻みで変化している。
日は落ちて夜に変わろうとする黄昏の微妙な薄明かりの中、飾り程度に設置られているような電灯は点いても充分に辺りを明るくは照らせなかった。
でもちゃんと亜藍の顔が見えるだけで真っ暗闇の中よりも、そして気持ちに素直になるためにはっきりとした晒すような明るさよりも中途半端なその電灯の明
かり
は有難かった。
「ごめん。亜藍は何も悪くないよ。怒ったのは、私が我がままで思うように行かなかったから一人でイライラしてただけ。それになんか石鹸買ってから平凡が非
凡になっちゃっ
て戸惑ってしまって」
「ん? 石鹸?」
「だから、その、ふらふらっと石鹸の香りに誘われて衝動買いしちゃったの。それがきっかけなのか、次、知らない人に声を掛けられて、亜藍の事が好きとか言
われちゃったでしょ。それを亜藍に伝えようと家に寄ったら、亜藍に久し振りに会ったけど、フランスに行っちゃうとか言うからさ、どうしていいかわかんなく
なってさ、そしたら急にイライラしてしまった」
上手く説明できてるかわからなかった。
自分でも何を言いたいのか頭の中で纏まる前に言葉にしていた。
国語が得意で色んな表現を知っているって思ったのに、自分の気持ちは言い表せない。
心に思ったことが口から出るまで上手く訳せてないって感じだった。
亜藍の表情が苦笑いになっていた。
私は何か変なことを言ったのだろうか。心配な顔つきになって亜藍を見つめた。
「実はさ、俺の方が謝らないといけないんだ」
「えっ? どういうこと」
私は一瞬何もかも全て嘘の冗談で終わるのかと期待した。
亜藍が何を言うのかドキドキして息を飲んで待っていた。
「俺、いつも”もし”何々だったらとか仮定して真実をはぐらかしてしまうだろ。今回もだからその、やってしまったんだ」
「えっ? 何のこと?」
亜藍は勢いつけて言おうと、一度大きく息を吸っていた。