レ モネードしゃぼん

Side奈美 後編 5

 結局私達は一体何をしたかったのだろう。
 中途半端で肝心なところまで後一歩と言うところで臆病になって引っ込んでしまった。
 その先にあるものが何なのか本当は何も分かってない。
 それを見るのすら躊躇い、怯え、そして諦めてしまう。
 私達はまだまだ子供過ぎた。
 いや、本当は物事を良く分かっていたから、子供としてそう行動せざるを得なかったのかもしれない。
 もうすぐお互い17歳を迎えようとしている高校二年生であり、この年では一人で物事を判断するには制限があった。
 『もし──』この言い方が嫌いときっぱりと亜藍に言ったものの、私の頭の中では色んな仮定が浮かんでくる。
 もし亜藍が普通の日本人でフランスに行かなかったら──。
 もし私が亜藍と一緒にフランス留学できたら──。
 もし私達が仕事を持ったいい大人だったら──。
 その後は全て同じ文章が続く。
 私はきっと亜藍にはっきりと言うべきことを言っていた。
 亜藍は中途半端な仕掛けを考え付き、私はそれにまんまと乗せられた。
 私達はお互いの気持ちを確かめたいと思ったのにも係わらず、選んだ道は幼馴染 という関係だった。
「バカみたい……」
 亜藍の姿が見えなくなった暗い夜道を見つめつつ、つい寂しく呟いてしまった。
 
 その晩の献立は、仕事帰りに母が慌ててスーパーで買ってきた値引きの貼ったお刺身だった。
 父も母も共に仕事を持って働いているから、本来なら私が進んで夕食の準備をすべきなのは分かってるが、やっぱりまだまだそこまで完全に準備できるほど家 事は得意ではなかった。
 やはり子供であり、自分の身の回りのことも満足にすることもできない。
 親と一緒に生活しないと困り果てるように、つくづく不安定な立場だと思い知らされる。
 この日の夜は私は口数も少なく、父が帰ってくると少し遅めの夕食を家族三人でとった。
 兄弟もいない、一人っ子の私。
 勝気で我がままの性格は一人気ままな生活と、そしてそれを助長するように甘やかしてくれた亜藍のお陰だった。
 こんな私だから、亜藍のような男じゃないと私と一緒に過ごせる人なんて居ないとこの時になって気づく。
 私はとても大切な人をこの夏失う予定である。
 そう、もうそれは決まってるんだ。
 なんで亜藍は日本人じゃないの? 見かけはあんなに日本人なのに。
 目にまた涙が溜まって潤んでくる。それを必死に我慢していたらなんだか食欲がなくなった。
 でも亜藍のお母さんが作ってくれたパイはしっかりと食べた。
 一口食べたとき、口の中で線香花火をしたようなパチパチとした刺激が”痛酸っぱい”。
 痛酸っぱいってなんだと自分で思いながらも、酸っぱさが口の中を痛みつけるような感じがしたから勝手にそんな表現になってしまった。
 そして後から甘みがじわりと広がって、痛い思いをした場所が今度は瞬く間に癒される。
 一口食べる度にそれが一瞬で口の中に現れるから、癖になってしまってペロリとすぐに一切れ食べてしまった。
 本当に不思議なパイだった。
 酸っぱさで傷つけられて、かといって後から甘みが現れて結局はなんだったんだろうとその酸っぱさがあやふやになっていく。
 まるで自分の心の中を味に例えたようなパイだった。
 私の母も癖になるとペロリと一切れ平らげて、そしてその直後、亜藍のお母さんにお礼の電話を入れていた。
 楽しそうに母の会話が弾んでいる。
 亜藍のお母さんの側にも今亜藍がいるのだろうか。
 私はすくっと立って、食べたお皿だけは片付けて洗った。
 食器洗い洗剤を強く抑えて持ち上げたとき、偶然小さいシャボン玉が数個飛び出てきた。
 それはふんわりと目の前を浮遊してそして消えた。
 はかないシャボン玉の一生を見た気になって、少し同情してしまう。
 もしこの日、亜藍がフランス人と知って、フランスに行くなんて聞かなかったらそんな風にきっと思わなかったと思う。
 私の心の中も平凡から非凡にすっかり変化を遂げていた。

 ご飯を食べた後は宿題を慌てて適当に済ませ、そしてあのレモネードの香りがする石鹸を持ってお風呂に入った。
 樹里ちゃんに半分あげたので、石鹸の形は益々ごつごつした川の上流で見かけるような石みたいになっていた。
 まず、匂いを充分嗅いで、そして洗面器に汲み取ったお湯につけてボディウォッシュタオルに何度も擦りつけた。
 それだけでまた香りがお風呂場一杯に充満してきた。
 充分泡だったところで体を洗っていく。
 レモネードで洗ってる気分になった。
 ふとその泡を取って、指をそろえて手を丸め空洞になったところめがけて息を吹いてみた。
 シャボン玉が半分膨らみかかっている。
 でも手から離れる前にパチンと割れた。
 もう一度同じ事をやってみたら、今度は小さなシャボン玉ができてお風呂場でふわふわ浮いた。
 だけど長持ちはしなかった。
 あっという間にはじけて消えた。
 それから何度もまた挑戦するが、もうシャボン玉がうまく作れなかった。そんなことしてると寒くなって慌てて体と髪を洗って湯船につかった。
「平凡、非凡、そしてしゃぼんで消えた」
 そんな言葉が不意に出てしまう。
 この日の自分の心境だった。
 お風呂から上がると、あのレモネードの香りが自分の体から仄かに香る。
 この香りは一生忘れられない切ない思いを閉じ込めてしまった。
 きっと大人になったとき、またこの匂いを嗅ぐと、きっと亜藍の事とこの日抱いた切なさを思い出すと思う。
 その時私は何を思い、そして一体何をしているのだろう。
 懐かしいと思っているのだろうか、それとも悲しくていつまでも泣いているのだろうか。
 未来の自分は現在胸を痛めている自分の気持ちをどんな風に受け止めているのだろう。
 その時はしっかりと自分の力で生きているのだろうか。
 もし大人になったら──。
 この時の『もし』は仮定でもなかった。
 自分がやろうと思えばできる希望の『もし』だった。
 だから私はその時思った。
 もし大人になったら、私は亜藍に会いに行こう。
 亜藍はその時、他の誰かを愛しているかもしれない。
 だけど私はそれでも亜藍に会ってみたいと思う。
 私も他の誰かを好きになっているかもしれない。
 だけどどんな状況であっても、私はもし大人になったら亜藍に会いに行くのだ。
 もう一度、自分の腕を鼻で撫でるように匂った。
 仄かにやわらかいレモネードの香りがする。
 私はこの匂いが好きだ。
 その香りに勢いつけられて自分の気持ちに正直になってみる。
 亜藍が大好き。
 心の中でずっと大切にしまっておきたいために、仄かに香るレモネードの匂いで鍵をかける。
 この匂いを嗅ぐ度に自然と大切な気持ちを呼び起こして、小箱を開けるようにいつでも亜藍のことを思い出させてくれることだろう。
 私は柔らかなレモネードの香りに包まれて亜藍の事を思いながら、その晩はベッドに潜り込んだ。
 そして亜藍の真似をしてみる。
「メルシー、亜藍」
 フランス語にちょっと興味を持ったかもと思う自分がおかしく思えて、クスッとちょっぴり切なく笑っていた。

La fin



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