第二章 もうひとつの道
1
「迷いの館にお帰りなさい。いかがでしたか?」
立ちくらみを起こしたような訳の分からない瞬間。
次第に視界がはっきりと見えてくると、シルクハットとタキシードをまとった気味の悪い男が再び目の前にいた。
「クーン」
その隣で寂しげに鼻を鳴らしている茶色い犬。
暫く何が起こったかわからなかった。半分気絶した状態でゆらゆらしながら立っていた。
「かなりお疲れのようですね。少しお休みになられますか?」
すっと私の側に寄って覗き込んでくる猫のような目。
ハッとしたとたん、恐怖を感じ体が飛び跳ねて後ずさる。
「一体何なの?」
私は辺りをキョロキョロする。
ただ暗いだけで底知れぬ闇に囲まれていた。
そこにいるものだけにスポットライトが当たったようにはっきりと姿が見える。
「そんなに怖がらないで下さい。ここは安全です。ねっ」
男は足元の犬に同意を求めた。犬もそれに答えて「ワン」と吼えた。
「私、夢を見ているの?」
そうだとしたら、昼休みが終わった午後の授業中。うとうととしているに違いない。
「木暮成実さん」
突然名前を呼ばれ緊張が走る。
真っ直ぐ前を見れば、男が微笑んで手を差し出し、ポンと軽やかな音とともにノートがその男の手に現れた。
私もよく使うキャンパスノート。色はピンクだ。
「これをどうぞ。もう一つのあなたの道が開けることでしょう」
差し出されたまま、私はどうしていいのかわからない。そのまま突っ立っていた時、辺りが急に明るくなった。
気がつくと、学ランを来た男子が私の前で屈んで何かを拾っている。
身を起こして私にピンクのノートを差し出した。
「これ君の?」
まともに顔を見れば、それは小渕司だった。
私はびっくりしすぎて取り乱し、思わず喘いでしまった。
「ん? もしかして具合悪いの? 大丈夫?」
「おい、司! 何やってんだよ、早く来いよ」
前方で数人の男子たちが振り返って小渕司を見ていた。
「先に行ってて、すぐ行くから」
振り返ってそういった小渕司はまた私に視線を戻した。
「どこかで休んだ方がいいんじゃない?」
「小渕君……」
「うん?」
「私、その、あの……」
罪悪感から思わず目頭が熱くなって涙がじわっと漏れてくる。
「ちょっと、一体どうしたの?」
「ごめんなさい」
私は思わず深く頭を下げた。
「えっ、何を謝ってるんだい。僕は、君が落としたノートを拾っただけだよ。ほらこれ」
困惑している小渕司はノートを私に無理に差し出す。私は顔を上げ、それを震えながら受け取った。
「本当に大丈夫かい。家まで送ろうか?」
「えっ、そんな、だ、大丈夫です」
「受験勉強のし過ぎで疲れてるんじゃないのかい? この時期進路を決めないといけないもんね。それで悩んでたとか?」
「受験?」
私は混乱していた。
そういえば、小渕司も私もまだ中学の制服を着ている。
どういうことだろう。あれ? 時間が撒き戻っている。
嘘っ!
そうだ、私はタキシードの男と初めて会った後、小渕司とすれ違って敵意を持って睨んだった。
そしてこれは二回目?
と言うことは私はやり直せる? 今までの事がなかったことになる?
この状況が見えてきたとき、私はドキドキとして気持ちがぐっと高まっていく。
「あの、ありがとう。もう大丈夫です」
「そうかい、それならいいけど。とにかくお大事に」
奇妙なものでも見たかのように小渕司はすっきりしないままその場を走って去っていった。
前方にいた友達に追いつき、みんなに冷やかされながらワイワイとしていた。
これは夢なのだろうか。
ありきたりの方法で頬っぺたをつねってみたら痛い。
何かとてつもない力が作用して私は導かれている。
そして手元のノートをパラパラとめくったとき、そこには私が高校受験で一度受けた問題の回答と説明がびっしりと書いてあった。
一体何これ。ちょっとすごい。もしかして私、飛翔国際高校へ行けるの?
私はそのノートを強く抱きしめ希望に燃えた。
今度こそ、思い通りの高校生活を送る。
急に人生がバラ色に見えてくる。
興奮が冷めやらずいつまでもその場に留まって舞い上がっている私に、後ろから「ナル」と声を掛けられた。
振り返れば明穂が近づいてきた。
「そこでずっと立ち止まってるけど、誰か待ってるの?」
「えっ? べ、別に」
全てはなかったことになってるが、明穂を目の前にするととても複雑な感情が芽生える。
明穂はこの時私をどう思っているのだろう。
こんな風にふたりっきりで会うのは初めてのことだった。
「よかったら、途中まで一緒に帰ろう」
「でも、明穂の家はあっちの丘の上じゃなかったっけ?」
「えっ、私、引っ越すことナルに言ったっけ。受験が終わったら引っ越す予定なんだ」
この時点ではあの大きな家にはまだ住んでないんだ。
「よかったら、遊びに来てね。私、お菓子作りが趣味なんだけど、今度の家ね、大きなオーブンがあって、すごく楽しみなんだ」
「お菓子作りが趣味……」
だから私の母が作ったクッキーに反応したわけだ。といってもこの時点ではなかったことになってるけど。
不思議な気持ちで肩を並べて歩いている明穂をそっと見つめた。
「ナルは飛翔を目指してるんでしょ。絶対頑張ってね。応援してる。ナルにはお世話になったから」
「私、何も世話なんてしてないよ」
なんなんだこの展開は。
「ずっと前から話したかったんだけど実は、私さ、小学生の時、数年アメリカで過ごしたんだ。今は英語なんて忘れたけど、発音だけはいいみたい。でもほら変
に下を丸めて外国人っぽく発音したらちょっと気取ってなんていわれるからいやなんだ。それなのに、先生が英語のスピーチ大会に出ろとか言ってさ、断りきれ
ずにいたんだけど、当日ドタキャンしたの」
「あっ、その話」
私ははっとした。私も英語のスピーチ大会には興味があって会場にいたんだった。
そこで急に英語の先生とばったりあって、出場者が出られなくなって急遽私が参加することになったんだった。
私は代表に選ばれるような生徒じゃなかったけど、英語が好きだったし自分だったらどんな風に言うだろうと一人で勝手に練習していた。
だから先生に代役で急遽出ろといわれた時は嬉しい気持ちが入り乱れながらびっくりした。
恥ずかしいとか、怖いとかもあったけど、穴を開けることは学校の信用に関わるからと、下手でもいいからとにかくスピーチしろと先生に言われ、最後に受験に有利だぞとまで付け足されたら出るしかなかった。
先生も必死だったから言葉のあやでそんな事をいったのだろうけど。
「欠席したの明穂だったの?」
「ナル、あの時はありがとう。私、ナルに感謝してもしきれない。あまりにも自分が恥ずかしくてお礼もちゃんといえなかった。だから私、ナルに恩返しをずっ
としたかったんだけど、何もできなくてごめんね。私、あまり勉強もできないし、取り柄もないんだけど、でもナルが困った時は絶対に力になるからね。中学卒
業してもよかったら友達でいてね」
「明穂……」
明穂はその後も話を続けた。
幼少のころアメリカで数年過ごしたために、日本に帰ってきたとき漢字の読み書きができなかった。
そのせいで本が読めなくて授業についていけなかった。
英語も完璧にできるわけでもなく、態度だけはアメリカナイズされてフレンドリー(私はそれを能天気と呼んでいた)だが、言葉に関してはどちらも中途半端で悪影響を受ける方が大きかったらしい。
中学ではなんとかついていけるようになったものの、そういう苦労から勉強をしたいという意欲が湧かずにみんなから馬鹿扱いを受けていたらしい。
そういう私もそんな目で明穂を見てしまった。
だけど私が一度窮地を救ったことで明穂は一生懸命になる事の大切さを知ったといっている。
「ナルはいつも一生懸命だよね。自分の目標のために頑張ってる」
「私、そんなんじゃないよ。だって……」
心の中は嫉妬でいっぱいなんだから。でも正直にいえなかった。
明穂は私を見て笑っている。その笑顔に幾分救われた。
「それじゃ、私、こっちだから。ナルとこうやって話せてすっとした。それじゃまた明日ね」
明穂は明るく去っていく。
すでになかったことになった一緒に通った高校の数ヶ月間だけど、明穂は受験に失敗して落ち込んでいた私を一生懸命支えてくれていたに違いない。
それを私は仕返しだの復讐だのと思っていた。
恥ずかしすぎるけど、もうすでになかったことなんだからと言い聞かせる。
明穂の後姿を見送りながら私はこの先の未来のためにノートを胸に抱きしめた。