第二章

 11
 ミッシェルがひとりで帰っていくのを見送った後、小渕司と私は夕暮れに濃くなるシルエットになってゆっくりと住宅街を歩いていた。
 小渕司は足をまだ引きずっている。
「足、まだ痛む?」
「少しだけ」
 少しぶっきらぼうな答え方。まだ気持ちが不安定だ。
「ミッシェルね、そんなに悪い子じゃないんだ。ほら、機嫌が悪い時はどうしてもイライラしちゃうし、それで」
 私にはその気持ちが良く分かる。
 何せ一度目はその気持ちのせいで小渕司を睨んでいたのだから。
 釈明する私を遮り小渕司は言葉を挟む。
「さっきはごめん」
 私が庇ったことで急に羞恥心が沸き起こったのか、バツが悪そうにシュンとしている。
「本当はさ、私もショックだった。でもああやって変わりにいってくれたから、ちょっと収まっちゃった」
 労ってみるけど、褒められたことじゃないので苦笑いになってしまう。
 小渕司もつられて同じように苦笑いする。
「僕も比べられた事があって、それで自分の事みたいに我慢できなかったんだ」
「でも、小渕君は中学生のとき人気者だったじゃない。高校でも人気急上昇中だよ。だから比べられるのは他の人でしょうに」
「そんなことない。僕はずっと透明人間だったんだ。いや、今もそうだ」
「えっ、それこそ全然そんな事ないけど。小渕君、むちゃくちゃかっこいいよ。ものすごくもててるよ」
 私は言わずにはいられない。
 私の態度に小渕司はくすっと鼻で笑った。
「だったら、木暮さんは僕のこと好き?」
 日暮れ時に見る小渕司は哀愁が漂い大人びていた。
 真顔で私を見る表情がドキッとさせる。
 今まで小渕司のことこんな風に見たことなかっただけに、私は慌ててしまう。
「えっ、そ、その、何ていうんだろう」
 心が狭かった時は嫉妬で睨んだこともあったけど、二度目で見方が変わってしまった。
 決して嫌いではない。
 今まで罪滅ぼしに必死になり過ぎて小渕司を意識してみたことなんてなかった。
 だけど急にドキドキしてしまう。
「小渕君は隔てなく誰とでも付き合って、素敵で素晴らしい人だから、やっぱり好き……かな? 友達としてだよ」
 なんだか顔が火照ってくる。
「ありがとう。そんな風に僕を好きと言ってくれてとても気分が楽になるよ」
「そ、そんな」
 まともに顔が見られなくてとても面映い。
 胸はまだドキドキとしたままだ。それがちょっと快感になってる。
「木暮さんは優しいね」
「ううん、私、優しくなんてない。いつも嫉妬ばっかりしてるし、気に入らないとすぐに機嫌そこねるしさ」
「そんなことないよ。度胸があるというのか、いつも一生懸命で全力投球だし、人の事考えてるなって思う」
「それ、間違ってる。私、小渕君に酷いことしてたんだよ」
 小渕司はきょとんとしていた。
「僕、木暮さんに酷いことなんてされたことないよ?」
 書き換えられた未来、なかったことになってしまった私の記憶。
 小渕司を見ているとそれを吐き出したくなってくる。
 あの時のこと謝って許してもらえたら、あの記憶に悩まされなくて済みそうだ。
 そう思うと私は言わずにはいられなかった。
「あの、言っても信じてもらえないかもしれないけど、聞いてくれる」
「うん、いいよ」
「もし私が一度目をなかったことにして、二度目を歩んでいるって言ったら信じる?」
 小渕君は疑問符を頭に立てているように不思議な顔をしていた。
 すぐに飲み込めないようだ。それでもお構いなしに私は吐露する。
「その一度目のとき、私、小渕君のことを誤解して、怒らせたの。私たちは言い合いをして反発した。だから、それを謝りたくて」
「ちょっと待って、一度目がなかったことになって、二度目をやり直しているってこと? それってタイムリープしたの?」
「そうなるのかな」
 実際自分でもよくわからない。
「まさか」
「ね、信じられないでしょ。でも本当なの。突然タキシード着た変な男と犬が現れて、やり直しのチャンスを与えられたの」
「やり直しのチャンス……。本当に? やっぱり非現実的だね」
「信じる方が難しいって。だって、小渕君はその時の記憶がないもん。私だけがやり直しているの」
 私は一回目の時の事を話した。
 小渕司に嫉妬していたことも、受験に失敗したことも、ミッシェルのことも、そしてやり直しの時、入試問題の答えが書かれたノートで高校に入学したことも全て話した。
「ノートって、あの時、僕が拾って君に渡したアレ?」
「そう。あの時が私のやり直しが始まった時」
 小渕司は感慨深く考え込んでいた。
「もし、それが本当なら、僕も五年前に戻ってやり直せるかな」
「えっ?」
「いや、何でもない。それが本当であっても作り話であっても、それは木暮さん自身のことだからでいいんじゃないかな」
 寂しげに薄く笑う小渕司。
 どこかで自分にも起こってほしいと願っているのかもしれない。
「小渕君も後悔していることがあるの?」
「うん、ちょっとね」
「それはどんなこと?」
 私が質問しても、小渕司ははぐらかしそれ以上教えてくれなかった。
 暗かったせいもあるけど、小渕司の瞳は暗い穴がふたつ開いているようにただ虚しく悲しげだ。
「それじゃ、僕はここで。今日はありがとう」
「私こそ、ありがとう」
 なかったことの未来で小渕司と喧嘩した事を告白してから、私は肩の荷が下りた。
 最後は笑って別れたものの、その別れ際に見た小渕司は前屈みにうつむき加減だった。
 その背中は重いものを背負っているように疲れている。
 暗闇に溶け込んで彼の姿が見えなくなると、私は肌寒さにブルっと震えた。

 家に帰れば、ミッシェルは私の母と深刻にダイニングテーブルを挟んで座って話していた。
 私を見るなり母は立ち上がって私に駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
 私が問いかければ母は興奮気味に言った。
「それはこっちの台詞よ。ミッシェルと何があったの。ホームステイ先を変えたい。ここを出て行くなんて言ってるのよ」
 椅子に座ったままゆっくりと振り返るミッシェル。
 口をへの字にして不満を表し、言葉なく私をじろりときつく見た。
 ミッシェルの心が頑なに閉じている。
 今は自分の事しか考えてなさそうだ。
「お母さん、とにかくまずは担当者に電話してみよう」
 私のアドバイスで、母は手引書を引き出しから引っ張り出してそこに書いてあった連絡先に電話する。
 でも休日のために繋がらなかった。
 かからないだろうとは私も思っていた。でもこれでいい。
「ミッシェル、日本は長い休日期間になってるから、電話が繋がらない。休みが終わったら電話する。それでいい?」
 ミッシェルの首が縦に一振りされた。
 春休み、ミッシェルと仲良くしたくてしつこく一緒にいたのを煙たがられた。
 そして世話したいあまり、色んな事を押し付けがましく言った。
 ミッシェルは日本に慣れない生活にホームシックとなり、気持ちは沈みがちだった。
 自分の思うように行かない事がもどかしく、イライラが募っていくのは私もよくわかる。
 ミッシェルの勝手な行動や失礼なところは腹が立つけど、それがかつての自分の姿を見てるようでもあった。
 明穂の家を見た後では彼女も比べたくなってくるだろう。
 仕方がないと割り切り、私は普通に接する。
 これだけはわかってほしい。ミッシェルと仲良くなりたかったことを。
 一回目の時、親しみをこめて抱きつかれたから、ついあのままだと思い込んで過度にベタベタしてしまった。
 ミッシェルには記憶もなければ、ありえなかった出来事だ。
 私がミッシェルを追い込んでしまった。
「ミッシェル、辛い思いさせてごめんね」
 ミッシェルは持っていきようのない気持ちに喘いでいたけど、椅子から立ち上がるや否や、私から逃げるように自分の部屋へと階段を上がっていった。
 母は私にどうすべきか目で訴えている。
「ここはミッシェルの思うようにするしかないと思う。大丈夫だって」
 私は落ち着いて答えられた。
 昔の私なら同じように腹が立って逆切れしていただろう。
「やはり外国の人と一緒に暮らすのは難しいわね」
 母はため息をついていた。
 一度目に会った時のミッシェルは、楽しそうに日本の生活を満喫していた。
 二度目のやり直しではうまく物事がぴったりと前回のようにならなかった。
 環境やタイミングそれらが未来に影響する。
 自分が何を選ぶかで未来は常に変動していく。
 もし未来がいい方に変えられるのなら、私は何をすればいいのだろう。
 その時、「クーン」と甘える犬の声が聞こえた。
 自分の足元から聞こえてくる。
 まさかと思って声のする方向を見れば、茶色い犬が私に寄り添っていた。
 でもその姿は透き通るように消えかけている。
「成実、晩ごはんどうしようか。ミッシェル、食べてくれるかしら」
 冷蔵庫の前にいる母は献立に悩みながら私を見ているが、犬の姿には気がついてない。
 私と母の間には遮るものがないというのに。
 何がどうなっているのか。
 再び足元を見れば、犬は私に悲しげな目を向けた後すっと消えていた。
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