第三章


 そして受験当日。あいにくにも雨だった。
 でも僕はその雨がいやじゃなかった。しっとりとした濡れた感じは僕の心に似ていたから。
 受験会場の高校が近づくにつれ、傘を持ったたくさんの生徒たちが同じ方向へ流れていく。
 緊張の面持ちで向かう人、まだ単語帳を持って覚えながら歩いている人、同じ中学出身同士仲良く肩を並べている人、みんなさまざまに集まってきていた。
 そこに同じ制服の女の子を見つけた。あの子だ。
 喋ったことはないけど、変に意識してしまう。
 同じ中学で顔は知っているのに、声を掛けられないのは息苦しい。
 彼女はたどたどしく歩きながら僕から離れていった。
 一緒に受かったとき、声を掛けてみよう。
 じろじろと見た事をまだ起こっていたら謝りたい。
 僕は一度あの子と話してみたかった。
 英語で夢を堂々と語ったあの子が僕は羨ましかった。

 そして合格発表の日。
 高校に受かれば、お母さんも僕を祝ってくれるだろうし、その時だけは僕を褒めてくれるに違いない。
 校舎の壁に張り出された紙に書かれたたくさんの数字。
 その中に僕の受験番号を見つけた。
 合格はやはり嬉しくて自然とニタついていた。
 ふと何気に振り返れば、あの子と目が合う。
 僕を見るうちにウサギのような赤い目になってポロポロと涙をこぼし出した。
 そんな、あの子が落ちてしまったなんて。
 僕はすぐに目を逸らすべきだったのか、声をかけるべきだったのか、どう対処していいのか分からず、そのまま彼女をじっと見てしまう。
 彼女はデリカシーがないと思ったのか、僕をきつく睨んできた。
 落ちたショックで気持ちが抑えられないのか、彼女は踵を返して去っていった。
 受からなければ誰しも悲しいのは当たり前だろう。
 ましてや受かって喜んでいる人の側にいるなんて辛いに越した事がない。
 彼女はこの先大丈夫だろうか。
 気にはなるけども、受かってしまった僕には落ちた人の事まで深く考えられなかった。
 きっと滑り止めで受けた私立高校に行くのだろう。高校はここだけじゃない。
 今は自分の事だけを考えていよう。
 僕は受かったことに感謝して、これから入学する高校の校舎を見上げた。
 僕は少し期待する。
 少しばかり何かが変わっていくかもしれない。
 今日は僕が合格したからお寿司を食べたいと言ってみようか。
 晴れやかな僕の合格の日、弟のために自分の好きなものを我慢するなんて嫌だった。
 でも、家に帰って報告すると、お母さんは喜んでくれたものの、すぐ弟のところへ行ってしまった。
「お兄ちゃんね、高校受かったよ。翼ちゃんがずっと祈ってくれたもんね。ありがとうね。お兄ちゃんも、ほら、翼ちゃんにお礼をいいなさい」
 なんで僕が弟にお礼を言わなくちゃならないんだろう。
 僕は自分の力で合格したんだ。
 弟の力なんてこれっぽっちも借りてない。
 僕はそれを無視して僕のしたい事を言った。
「お母さん、お寿司食べたいな」
「お寿司? 翼ちゃんに悪いと思わないの? それよりも、今日はステーキを焼きましょう。うーんと分厚いの。お父さんも、お肉が食べたいって言ってたもの」
 まただ。僕のリクエストは却下された。
 だったら僕はひとりで回転寿司に行きたい。
 だけどそんな事をしたら、目を三角に吊り上げてお母さんが怒り狂う事を知っている。だから僕はまた我慢した。
 目の前で笑っている弟の顔を殴りたくて、僕はこぶしをぶるぶる震わしていた。
 でも自分の部屋に入ってひとりになると、僕は弟にそんな気持ちを抱いた事を後悔する。
「ごめん、翼」
 ため息が漏れた。

 高校に入っても、僕とお母さんの関係は相変わらずのままだ。
 サッカー部なんて本当は入りたくなかった。
 サッカーを続ける意味なんてないのに、僕は意地になって固執しているだけだ。
 家にできるだけ早く帰りたくない。だったら部活をした方がましになる。
 それならサッカーをした方が得なのかもしれない。
 幸い、サッカー部のみんなは先輩も含めてみんないい人ばかりだった。
 僕が先輩を差し置いてレギュラーに抜擢されても、チームを強くするためと応援してくれるほどだ。
 僕の方が恐縮してしまう。
 そんな時、マネージャーの名倉先輩がポンと背中を叩いてきた。
「遠慮は禁物よ。ほら、たくさん暴れなさい。今のあなたは色んなものを溜め込んで苦しそうよ」
「なんでそんな事わかるんですか?」
「だってマネージャだもん。選手の健康管理だって注意してみてるもん。何か悩み事があるんだったらはっきり言いなさい」
 話し方が心に沁みて僕はその優しさにほだされてしまう。
「実は母のことなんですけど」
 僕は洗いざらい名倉先輩に話してしまった。
「そうなの。それは辛いわね。でもお母さんもきっとあなた以上に苦しんでいると思う。お母さんも結局逃げちゃってるのかも。そうやって弟さんを可愛がると心が安定するんだわ」
「どうしたらいいんでしょう」
「そうね、あなたが明るく振舞うことで、お母さんの目を覚まさせるしかないわ」
「僕、そんな明るくなれそうもないです」
「だったら、元気の塊を紹介してあげる」
「元気の塊? なんですかそれ」
 そうやって、次の日、名倉先輩はサッカー部にミチコというオーストラリアの留学生を連れてきた。
「あなたが、ツカサですね。はじめまして」
 手を出してきたので握手を交わせば、強く握られぶんぶん振られた。
「ツカサかわいい」
 次はぎゅっと抱きしめられた。
「えっ、ちょっと」
「あー、でも私、オーストラリアに恋人います。残念」
「そ、そうですか」
 ノリについていけなくて、助けてほしいと名倉先輩を見れば、面白そうに笑っていた。
「私も、日本に来たとき元気ありませんでした。ホームシックです。でも日本の家族が元気くれました。ひとりでもそばに明るい人がいると、気分晴れてきます。アキホがそうです」
「アキホ?」
「はい、私の日本の家族です。よかったら遊びに来ませんか。アキホも喜ぶ。今度きいてみます」
「あの、その」
 有無を言わさないままミチコは強引に突っ走る。
 名倉先輩が言ったとおりだ。ミチコは元気の塊だった。でもはじけて気持ちがいい。
 他のメンバーもミチコに声を掛けられて楽しそうにしていた。
 部活が終わったその日、部室で着替えていると、調子に乗った部員が、犬がじゃれるようにふざけて暴れだした。
 隅に置いていた会議用の折りたたみテーブルの上に乗って近くの部員に飛びかかろうとしたとき、バランスを崩してテーブルごと倒れてきた。
 運悪くそこにいた僕は雪崩れのごとく巻き込まれ、気がついたら床に倒れこんで足に痛みが走った。
 何がどうなったのか。さらに痛みがきつくなる。
 その原因を見れば、テーブルの縁に不自然に足首が挟まれてさらに人の体重で重みがかかっていた。
 すぐに痛みが引くと思ったのに、結構ぐきっとなったみたいで歩くとズキズキした。
 不慮の事故だ。
 それは仕方がないと思ったが、足を引きずって家に帰れば、お母さんが驚いて、感情をぶつけてきた。
「なんで怪我なんかするの。サッカーするためにあの高校に入ったのに。これでレギュラーに入れなかったらどうするの。サッカーやりたくてもできない翼ちゃんに申し訳ないと思わないの」
 僕の足の怪我を心配するよりも、怪我をした不注意な僕を怒っている。
 僕は弟が喜ぶために何かをやって当たり前だとお母さんは思っている。
 自分の足を見れば、思ったよりも腫れあがり熱を持っていた。
 僕はお母さんには見えてない子供だ。
 お母さんには弟しか見えてない。またお母さんは弟と話している。
「翼ちゃん。翼ちゃん」
 僕がどんなに頑張っても、期待に応えようとしても、お母さんに認めてもらえない僕は虚しかった。
 サッカー部に入るなんていわなければよかった。
 飛翔国際高校を選ばなければよかった。僕はもっと自分のためだけを考えればよかった。
 気持ちがどんどん落ち込んでいく。
 そんな時にパーティがあるからとミチコに遊びに来いと強く誘われた。
 ゴールデンウィークが始まったばかりの週末。
 寂しさを紛らわすために僕はその誘いを受けていた。
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