第三章

 9
 タキシードの男から渡された靴を履いた私は、犬の案内に従ってついていった。
 薄暗い部屋を犬の尻尾を見ながら歩いていると、夜明けのように辺りが次第に明るくなっていく。
 景色がはっきりと現れると、小渕司が通りすがり気味にセーラー服を着ている私をちらりと見ている場面に出くわした。
 それをにらみ返した中学生の私。
 私が一度目に体験した未来に戻っていた。ただし、今度は傍観者としてだ。
 私が嫉妬していた時の私が知らなかった小渕司。
 磁石が引き寄せられるように、私は小渕司の側にくっついていく。
 犬もまた見守るように私と一緒にいる。
 この時、不思議なほどに小渕司の心情が私の中にも流れてきた。
 小渕司は人望も厚く、誰からも好かれ、恵まれた人生を歩んでいると思っていた。
 でも彼は弟を亡くし、母親からも疎まれ、常に罪意識に苛まれていた。
 そんなことも知らずに私は自分の事ばかりしか考えずに小渕司に理不尽に嫉妬していた。
 彼が抱く悲しみとやるせなさはここまでも深く蝕んでいた。いつ心が壊れてもおかしくないくらいに。
 小渕司の体験した一度目の未来。
 ずっと傍観してきたが、この先は黙っていることなどできなかった。
 このままでは彼は間違った道を歩んでしまう。
 Tシャツを切り裂き、それを一本の紐のようにしてドアノブに引っ掛けている。
 まさか、これは……
「小渕君!」
 私は叫んで、小渕司を掴もうとする。
 でも手が小渕君の体を素通りする。
 声も届かない、触れることもできない。
 私は小渕司には見えない存在だ。
「小渕君、馬鹿な事を考えないで」
 だけど、この後どうなるか私はすでに知っている。
 彼は自ら命を絶ってしまう。
 ねえ、誰か助けて、小渕司を死なせないで!
 一体どうすれば、助けられるのだろう。
 その時、犬が私の足元にやってきて、履いていた靴を甘噛みしてきた。
「ちょっと、今、遊んでる暇なんて……あっ、もしかして」
 タキシードの男は言っていた。
『この靴を履いている限り、あなたは小渕司の視点で物事が見られます。小渕司の側にはいますが、この靴を履いているとあなたの姿は彼には見えません』
 この靴を履いていると姿が見えないのなら、脱ぐとどうなるんだ? 脱げばもしかしたら……。
 迷ってる暇はなかった。
「小渕君!」
 私は靴を脱ぐや否や叫び、小渕司の腕を取った。
 同時に暗かった部屋がパッと明るくなっていた。
 小渕司は突然現れた私にこの上なくびっくりし、反動で尻餅をつく。
「えっ、なんで木暮さんが僕の部屋に!?」
「小渕君、馬鹿なことはやめて。小渕君は何も悪くない。もう自分を責めるのはやめて」
 私は床に座り込んでいる小渕司に無我夢中で覆いかぶさった。
 大胆にもぎゅっと抱きしめてしまう。
「ちょっと、木暮さん。一体何がどうなってるのか」
 泣き叫んで抱きついている私に小渕司は訳が分からなくなっていた。
「クーン」と鼻を鳴らし、犬が小渕司の側までやってくる。
「えっ、犬?」
 小渕君はキョトンとしてその犬を見つめた。
「木暮さん、どこから犬と一緒に僕の部屋へ入ってきたの?」
「ずっと側で見てたの」
「見て、た?」
 少し気まずそうに小渕司は目を伏せた。
 静寂さが、私と小渕司を冷静にしていく。
 小渕司に乗っかる形で抱きついていた私は我に返り、急に恥ずかしさがこみ上げると慌てて自分の体をどかした。
 小渕司は困惑し、私を見つめる。
「なんだかわからないけど、よかったら説明してくれるかな」
 落ち着きを取り戻した声だった。私が急に現れたことで全てを現実として受け入れたのだろう。
 これならこの不思議な出来事を理解してくれるかもしれない。
「えっと、あのね、実は」
 私は自分に起こった事をわかりやすく説明しようと試みる。
 タキシードの男と犬が現れて未来を二度体験させられたこと。要点をかいつまんで話すけど、支離滅裂だったかもしれない。
 小渕司はまだ混乱が残ってピンとこない顔をしている。
「それで、この靴を履いてね、小渕君と一緒に行動してたの」
 脱ぎ捨てた靴を見せた時、小渕司は言った。
「それ、僕の靴だ」
「えっ?」
 私は、この時この靴の意味していることがわかった。
「木暮さんは二種類の未来を体験し、その時に僕が大いに関わっていたんだね」
「誰かが小渕君を助けたいために、この不思議な現象が起こったの」
 小渕司は擦り寄ってくる犬の頭を優しく撫でて訊いていた。
「さっきから、時計の針が止まったままだ」
 小渕司が見ている方向を咄嗟に振り返れば、ベッドの側の棚の上に置いてある目覚まし時計の秒針が確かに止まっていた。
 電池が切れたわけじゃなくて、この世界の時間が止まっている?
 どこかにタキシードの男がいるんじゃないかと私は辺りを見回した。
「木暮さんの言う事が本当なら、この世界は誰かが見ている未来なんだね。それじゃ僕たちはこれからどうなるの?」
「それは」
 私にもわからない。
 一応ここで小渕司の自殺は止めたけど、これは不確かな未来であって、まだ完全に阻止したといいきれないのではないだろうか。
 私たちが確実に存在する時間軸はここから過去に遡ることになる。
 タキシード男の言葉を思い出す。
『大切なのは小渕司が自ら解決する糸を見つけなければならないということ』
 私が阻止したところで、これは意味がない。
「あっ、犬がなんだか不安定だ」
 小渕司の言っている意味がわからず、犬を見れば、その姿が段々と薄くなってきて触れなくなったり、また元に戻ったりとしていた。
「そういえば、時間が限られてるんだった。この犬が消えてしまわないうちに解決方法を見つけないと」
「それじゃ、犬が消えると僕たちも消えてしまうの?」
「わからない。だけど、今の状態が小渕君を救った訳でもない」
 私は考える。
『あなたは小渕司から助けるヒントを得ることができました』
 二度目の未来を体験した後、タキシード男は私がヒントを得たといっていた。
 一体何を得たんだろう。
「ねぇ、小渕君。何か感じること、気づいたこと、何でもいいから心に思うことがあったら言ってみて?」
「思うこと? そういえばこの犬なんだけど、弟が犬を飼いたがっていて、飼う予定だったんだ。でも病気が発覚してそれどころじゃなくなったから、延期した んだ。弟は元気になったら飼えると思ってどんな犬を飼いたいか入院中に絵を描いたんだけど、その時の犬に似てる気がする。青色が好きな弟は、絵の犬にも青 い首輪を描いてたんだ」
「翼君が飼いたかった犬?」
 私はじっとその犬を見つめる。
 この犬に案内され私は小渕司の体験した未来を見せられた。
 この犬は私に言葉を発した。
『ナルお姉ちゃん、助けて』
あどけない子供の声だった。
 もし、その声が翼君だったとしたら――。
 翼君はお兄ちゃんを助けたがっている。
 私は犬に向き合う。
「この未来を見ているのは翼君ね」
 犬は「ワン」と吼えた。
 私はどうすれば小渕司を助けられるか分かった。
 二度目の未来を体験した時、別れ際に私は小渕司に何もかも話した。
 その時小渕君も思ったんだ。
『僕も五年前に戻ってやり直せるかな』
 小渕司は後悔している事があったはずだ。
 それを教えてくれなかったけど、今ならはっきりと分かる。
「私たちを五年前に案内できる? 翼君がお兄ちゃんに会いたいと願ったあの時に」
 犬は尻尾を振って「ワン」と答えていた。
「どういうことだい?」
 小渕司も本当は薄々感じているはずだ。
 この犬が弟によって送られてきたこと。
「小渕君、今なら間に合う。翼君に会いに行こう」
 私は小渕司に手を差し伸べた。
 その私の手を彼は信頼するかのようにぎゅっと掴んだ。
 私たちの思いが重なった時、眩い光に包まれた。
 気がつけば、私たちは緑に囲まれたどこかの公園にいた。
「ここはどこ?」
 私が訊くと、小渕司はすぐに気がついて一点をじっと見つめて答えた。
「弟が入院している病院の近くの公園。ほら、あそこのベンチで座ってるのが僕だ」
 ボール蹴りをしている子供たちを、ベンチに腰掛けて見ている坊主頭の男の子。
 前屈みに背中を丸めてぼんやりとして疲れきっている。
「あれが、小学生の小渕君?」
 私が訊くと、小渕司は当事を思い出して辛そうに顔を歪めた。
「休みの日はいつも病院だった。友達とも遊べず、宿題があっても後回し、弟が入院しているからなんでも弟を優先に決められてしまった。母も看病に疲れていて、僕の面倒を見る余裕なんてなかった」
 犬が慰めるかのように小渕司の足に頭をこすり付けていた。
「いい加減ぼくも嫌気がさしていた。この日に限って僕は何も考えたくなくて、病院を飛び出し気ままに過ごしていた。まさか弟が死ぬなんて思ってもなかったんだ。子供過ぎて弟の症状のことよく知らなかった。入退院を繰り返してたから、またすぐに家に戻れると思っていたんだ」
「仕方ないよ。まだ子供だったんだもん。でも、今なら間に合う。あの小学生の小渕君をつれて翼君に会いに行こう」
 そうすることが使命のように小渕司は「うん」と頷く。
「木暮さん、ありがとう。僕はこれで弟とちゃんと向き合えるよ」
「これは翼君がお兄ちゃんの事を心配したから呼び寄せたんだと思う」
「弟も木暮さんを選んだのは間違いじゃなかった。僕が木暮さんのことずっと前から気になってたの弟には分かったんだろうね」
「えっ?」
「またこのことは後で言うよ。とにかく今は、小さい僕を連れて弟に会いにいかなくっちゃ」
 小渕司は、小学生の自分に近づいていった。
 私はドキドキしていたけど、そのドキドキは小渕司が言った言葉によってなのか、この瞬間に立ち会ってなのか、わからなくなっていた。
 とにかく祈る思いで、ふたりの小渕司を見守っていた。
 一体ふたりはどんな風にお互いを見つめるのだろう。
 ベンチに座っている小さい頃の自分と対面した小渕司。
 小さい小渕司が顔を上げた時、大きい小渕司の姿が吸収されるように消えていく。
 私は思わず走り出す。
「うそっ、小渕君!」
 びっくりして小さい小渕司に近づけばきょとんとして私を見上げた。
「お姉ちゃん、誰? なんで僕の名前知ってるの?」
「木暮成実だよ。覚えてないの?」
「コグレナルミ? 知らない……」
 首を横にふって困った顔を私に向けた。
 一体どういうこと? 小渕司が消えた。なんで?
 目の前の男の子も小渕司であることは間違いない。
 でも私の知ってる小渕司ではない、この時点では。
 そっか、そういうことか。
 私は気がついた。
 この時間軸、すなわちここが本当の私たちが存在する時間。
 仮定の未来で存在したものは、ここに戻って本来の自分と向き合うと自分は消えてしまう。
 それが意味することは、今のこの時点で未来が不確かになったに違いない。
 高校生のあの小渕司は今から成長して作られていく。
 そう考えれば辻褄は合うけども、私はズキンと胸が痛くなった。
 なんだか失恋したような悲しさがこみ上げる。
 こんなに長いこと小渕司と共に未来で過ごして、私が抱いた感情はもうどこにもぶつけられない。
 それどころか、この私も本来の私に出会えば同じ道を辿ってしまう。
 折角築き上げたものを奪われるような切なさと悲しみに動揺してしまった。
 そして小渕司が私に後で言うといった事をもう聞けなくなった。
 一体何を私に言うつもりだったのだろう。
 私が悲しんでいる側で小さい小渕司はあどけなく私に尋ねる。
「それ、お姉ちゃんの犬? かわいいね。弟がみたら喜ぶだろうな」
 小さい小渕司は犬の頭を撫でた。犬は目を細めて気持ち良さそうにしていた。それを見てハッとする。
 そうだ、感傷に浸ってる場合じゃない。こんなことしてられない。
「えっと、司君、翼ちゃんに会いに行こう。お母さんも探しているよ」
 有無を言わせず、私は小渕司の手を取り引っ張ってベンチから立ち上がらせた。
「お姉ちゃん、ちょっと待って」
「それが、待てないの」
 私もそうとうテンパっている。
 これじゃ小さい子を誘拐してるみたいじゃないか。
「でも、お姉ちゃん、なんで靴はいてないの?」
「えっ?」
自分の足元を見れば、靴下を履いているだけだった。
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