第四章 正しい道

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 私が見知らぬ人だというのに、小さな手を私にゆだねてしっかりと握り返してくれる小学生の小渕司。
 とても温かい手だった。
 知らない人についてきたことも困惑の原因ではあるだろうが、小走りしながらも時々、私の足元を見て戸惑っている。
 靴を履いてない私が誘拐犯には見えなかったのか、有難いことに私を信じきっている。
 人を疑う事を知らない素直さが、私の知ってる小渕司らしく、それが愛おしくさえ感じてしまう。
 この小さな小渕司は私の事を覚えてない。
 私が見てきた未来の小渕司は跡形もなく消えてしまった。
 あっという間の出来事で悲しんでいる暇もなかった。
 私だけが記憶している小渕司の未来。
 未来の小渕司が消えたことで、それはどんな風に書き換えられてしまうのだろうか。
 私は小渕司とこの先また親しくなれるのだろうか。
 小渕司が消えてしまったことが、私の中の思いを強く私に思い知らせる。
 私は小渕司の事を……。
 この先の言葉を思うだけでずきんと胸が切なく痛む。
 私のこの思いもいずれなかったことになってしまうのが悲しかった。
 また未来で小渕司に会いたい。
 そのときはどうか私は睨んでませんように。
 もし小渕司と出会ったら、どうか私を正しい道に気づかせて下さい。
 自分が思う自分に成長して、小渕司を好きであってほしい。
 私は小さな小渕司に振り向き、にこっと微笑む。
 どうかこの私の笑顔を覚えていて。そして未来で私に話しかけて。
「司君。未来はきっと上手くいくよね」
 ずっと無表情だった小渕司の顔つきが私につられて幾分和らいだ。
 じっと私の顔を見ている。
 私のこと記憶に刻まれただろうか。そうであってほしいと私は彼の手をぎゅっと握った。
 病院に駆け込んで入ってくれば、さっきまでついてきていた犬の姿が消えていった。
 今はそれを気にしている暇はなく、小さな小渕司に病室を尋ねた。
 エレベーターを指差し、五階だという。
 ちょうどドアが開いて人が降りてきたところだった。
 その後滑り込むようにエレベータに乗り込んだ。
 五階のボタンを押してから、小渕司と向かい合う。
 ドアはゆっくり閉まって、小さな箱の中でふたりきりとなった。
 エレベーターは上昇していく。きっと小渕司の未来はこれで変わるはずだ。
「司君、自分の道をしっかり進んでね。この先の未来は司君が選ぶ道によって変わっていく。正しい道を選んでね」
「正しい道?」
「自分が正しいと思った事をすればいいの。後悔のないように」
 小渕司が考えている間に、チンと軽やかな音が鳴り、ゆっくりとドアが開いた。
「あっ、司。今、探しに行こうとしたのよ。翼ちゃんが呼んでるの」
 タイミングよく小渕司の母親が五階のエレベーターの前にいた。
 私をちらりと横目で見て、軽く会釈する。
 私もそれに合わせて軽くお辞儀する。
 小渕司は、私を気にしながらもエレベーターを降り、母親に手を引っ張られて廊下を歩いていく。
 私も同じようにエレベーターを降りた。
 小渕司は途中で振り返り、覚束なく私に手を振る。
 私も手を振ってそれに答えていた。
 また未来で必ず会おうね。そんな気持ちを込めて。
 上手く母親と合流したことで、多分これで弟と会えるはずだ。
 ただ悲しいのは、この日が最後の別れになること。
 大切な家族を失う。前を歩く親子を見るのが辛くなってきた。
 この後私はどうすればいいのか思案しながら、廊下で突っ立っていると、再び目の前に犬が現れた。
 犬は女性ものの黒いローヒールのパンプスを一足くわえていた。
「今度はこれを履けってことね」
 口をあければ、無造作に床に転がった。
 私がそれを揃えて、足を通せば少しきつい。でもサイズはこれ一つだ。
 そしてこれは誰の靴か私には分かっていた。
 犬は私についてこいと先を歩き出した。
 行く先は小渕司とその母親が入った病室だ。私は覚悟を決めてそこに向かった。
 病室についたとたん、小渕司の母親の気持ちが私に流れてきた。
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