第四章
2
翼の脳に髄芽腫があると発覚して、ズイガシュってなんだろうとまず病名がピンとこなかった。
それまで子供たちは大きな病気などしなかったし、目に見える限り健康で、たまに擦り傷を作ってもすぐに治るものばかりだから、病気とは無縁だと思っていた。
それがいきなり、翼の脳に悪性腫瘍があると説明されて私は気が遠のいた。
何かの間違いじゃないか、CTで脳をスキャンされた画像を医者から見せられたときは、食い入るように見ていたと思う。
やはり素人の目からみても明らかにおかしい様子があるとわかると、こみ上げる感情を抑えながら次は手術の事を考えた。
これを取り除けばいいだけじゃないか。
翼は助かるんだ。
そう思いこんで医者に向き合えば、医者は感情など持ち合わせてないお面のように表情を崩さず冷静に言った。
「取り除くのに大変難しい場所にあり、手術をすればそれで命を落とす危険が非情に高いです」
「それは手術できないということですか」
思わず私は食いかかってしまった。
「余程の名医でもこれは難しいために手術を躊躇うでしょう。私の力では成功する確率はほぼありません」
はっきり言う医者の言葉は私を容赦なく絶望に叩き落す。
手術ができてもできなくても翼は助からない。翼はこの先死んでしまう。
目の前が真っ暗になってしまった。
いや! 失いたくない。失ってたまるものか!
「お願いします。息子を助けて下さい」
必死に頼む私に医者はただ苦渋して申し訳ないと謝っていた。
司が最初に生まれた時は、何もかもが初めてで手探り状態の子育てだった。
男の子は女の子と違って手がかかるなどと世間では言われていたが、司は育てやすい子供だった。
多少のわがままは子供だから仕方がないが、それでもあやしてご機嫌を取ると大人しくなるような子で、私も随分と助かった。
育児って思ったほど大変じゃないなんて思って、もうひとりほしいと思ってできたのが翼だった。
翼はお腹にいる時から活発でよく動き、何度も蹴りを入れられた。
生まれてからも夜鳴きが酷く、司の赤ちゃんだった頃以上に手がかかり驚いたけども、それもまたいろんな子育てがあり、これはこれでいいと自分に言い聞かせて乗り切った。
その影で私の寝不足があったり、イライラがあったりもしたが、あの頃は自分の好きなようにさせてほしいと思うがままに子育てしていた。
敏感にその場の空気を感じる司は私の様子を窺い、兄として我慢することも多いいが、それは私にとっては大助かりだった。
だからといって感謝の言葉に表していたわけではないが、司なら私の望む事をしてくれると当たり前に思っていた。
どっちも分け隔てなく育てたつもりだったけど、性格も顔も私に似ている司よりも、夫に似た少しぶっきら棒の翼の方がかわいいと思う事が多かった。
司と翼が喧嘩すると、積極的な弟の翼が勝ってしまい、司は兄の面目を潰されて悔しい思いをしていた。
それは兄だから手加減していた部分があったのだと思う。
サッカーを一緒にすれば運動能力の差で司が勝つのだが、精神的な面で強くなれないのが司の性格でもあった。
それがもどかしく私の目に映り、少しイライラさせられる部分でもあった。
なぜなら、自分も同じような性格だからだ。
人と一緒にいると消極的になって自分の意見が言えなくなる。
いつも我慢を強制させられているみたいで自分でもいやになってしまっていた。
自分の短所を司が受け継いだことが私をイラつかせてしまう。
だから司が、私が思っている事をできないでいると、腹が立ちやすくなってしまう。
学校の宿題を教えていても、私が簡単と思っているのに、司は理解できない。
「なんでこんな簡単な事がわからないの」
頭ごなしに感情をぶつけてしまう。
決して司が嫌いなわけじゃない。愛しい私の息子に変わりない。
私に似ているからこそ、自分を見ているようでそれがコンプレックスを刺激されやすくなる。
愛しているからこそ、司には私が期待通りに何もかも上手くやってほしい。
母親って欲深くなってしまいがちだ。
司は長男だからしっかりして当たり前と、私の中ではそれは崩せない思い込みが根付いていた。
司は口答えするようなことはなく、不満があっても溜め込んでしまう。
我慢しながら、なんとかしようともがいて頑張ろうとする。
決してできの悪い子ではないので、本人がやればやるほど力がつくタイプだった。
それは私の愛情を得ようと必死でもあったのだろう。
母である私もちゃんとその部分は理解していた。
だけど私も結局司と同じ不器用さで、分かっているのに肝心な感謝の気持ちを外に出す事ができなかった。
司なら分かってくれる。
司なら大丈夫。
勝手にそう思いこんでいた。
それとは対照的に翼は落ち着きのないやんちゃな子供だから手がかかって仕方がなかった。
物はすぐ壊すし、好奇心旺盛でやってはいけない事を平気でやるような子だから、見ていてひやひやした。
後片付けやその迷惑な行動力にしょっちゅう怒っていた。
思ったこともずけずけという子でもあったのだけど、そこに素直さがあるので憎めないのが翼だった。
だからすぐに許せて、抱きしめたくなってしまう。
できなくて当たり前と翼には寛容になっていた。
無茶をするけども、翼のあけっぴろげのおおらかさが却って私には楽に感じていた。
手はかかるけど、気持ちをストレートにぶつけてくる翼は私の目にはかわいく映り、母性本能がくすぐられるのだ。
司はその分損な性格で、物分り良すぎるのはかわいそうに思えるくらいだった。
それなのに、もっと積極的になりなさいなどと言って、その部分に自分の短所を見せられてついつい苛立つからどうしようもなかった。
母親として私は完璧ではないけども、いろんな問題を抱えながらもできる範囲でふたりの息子を育ててきたつもりだ。
この先、このふたりが大きくなることが当たり前のように思っていた時に翼の病気が発覚し、どれほど私は打ちのめされただろう。
翼がいなくなる。考えただけで、怖くて震えが止まらなかった。
一体どうすればいい。
なぜかわいい翼が死ななければならないのだろう。
考えれば考えるほど絶望感いっぱいに私は何をどうすればいいのかわからなくなっていく。
翼が助かる方法があるのなら、私は全財産投げ出してでも助けたい。
代われるのなら私が代わってやりたい。
毎日何かにすがるように私は祈った。