第四章

 4
 また翼の具合が悪くなり、入院生活が始まった。これで何度目だろう。
 今回は個室にしてもらった。お金のことなんて気にしてなんていられない。
 いい状態で翼のコンディションを整えたかった。
 この時、放射線治療ができないので、化学治療をする予定でいた。
 いい細胞も殺してしまうので体に負担がかかるかもしれない。
 でも腫瘍さえ小さくなれば翼はもっと生きられる。
 私はまだ望みを捨てたくなかった。
「お母さん、ここ静かだね」
 大部屋で入院した時、他の子供たちが煩くて翼は耳を塞いで文句を言っていたから、この部屋は落ち着くみたいだ。
 ベッドに横たわっている翼に私はにこっと微笑んで頷いた。
 無理に私が笑っていると思ったのだろう。翼は疑うように私を見る。
「お母さん、疲れたでしょ。休んで」
「大丈夫よ」
 自分も大変なのに翼のその気遣いに涙腺が緩む。
「兄ちゃんはどこに行ったの?」
 そういえば、司は下のコンビニでジュースを買いに行くと言ったきり、戻ってこない。
「そのうち戻ってくるわ」
「今、兄ちゃんに会いたいんだ。僕ね、不思議な夢を見たの。兄ちゃんが大きくなってる夢。忘れないうちにその事を話したいの」
 翼の目の焦点が合ってないように見えた。
 いつになく元気もない。思い過ごしかもしれない、でも片時も側を離れたくなかった。
「お母さん、お兄ちゃん呼んできて」
 一度言ったらきかないその姿勢に私は折れてしまう。
「分かったわ、ちょっとその辺見てくる」
「疲れてるのに、ごめんね。でも大事なことなんだ」
 すぐに戻ってくるつもりで、私は病室を離れた。
 こんな時に気ままにどこかへ行った司に分けもなく腹を立ててしまう。
 気持ちが高ぶってきっと見るからに気が立ってる様子だったと思う。
 でも上手い具合に、乗ろうとしたエレベーターに司が女子高生と一緒に乗っているのを見て、慌てて体裁を整えた。
 司だけだったら、きっと容赦なく気持ちをぶつけていたにちがいない。
 見知らぬ女の子からそそくさ立ち去り、私は司の手を引いて病室に戻った。
 司は振り返ってバイバイと手を振っている。
「司の知り合いなの?」
「ううん、知らない。でも翼が待ってるって教えてくれて、ここまでつれてきてくれたの」
「えっ?」
 私が驚いて後ろを振り返れば、すでにその女の子はいなかった。
「不思議なおねえちゃんだった。靴はいてなかったの」
 それは私をドキッとさせるには十分だった。
 あまり考えないようにして、病室に戻れば翼はいつもの元気が戻っていた。
 司に会うなり堰を切ったように話し出した。
「兄ちゃん、僕、変な服きた人と出会って、兄ちゃんが大きくなったところ見せてもらったんだよ。でも兄ちゃん苦しんでた。ぼくそれが悲しくて」
「一体何の話?」
 司も分からなかったが、私も側で聞いてて首を傾げた。
 翼は説明しようとするけど、未来に行けば司も私も怒ってるや悲しんでるや、支離滅裂で何を言っているのかわからない。  本人も自分が説明できないと思ったのか、残念そうにしていた。
 でも気を取り直し、翼は司に向き合った。
「兄ちゃん、頑張れ。僕、兄ちゃんのこと好きだからね。いつも応援してること忘れないで」
「えっ、急にどうしたんだ?」
 唐突に翼に言われ、司は照れくさいのを隠すように困った顔をわざと作っていた。
 翼はそれを言い切ると、ほっとしたように横向きに体を動かした。
 私の顔をじっと見ている。
「お母さん、ゆっくり休んで。お父さんにも休んでって言ってね」
 言葉の語尾と共にすっと眠りに落ちていくように聞こえた
「翼は心配しなくていいの」
「うん」
 言葉を発するというより、音がぬけていくようなふわっとした返事だった。
 そして翼は目を半開きにして動かなくなった。私はドキッとする。
「翼!」
 体を強く揺さぶった。全く何の反応もない。
 ナースコールを慌てて掴み、狂ったように強く何度も押し、それでも足らずに病室の外へでて大きな声をだした。
「誰か来てください、早く!」
 そこからは自分が何をしたのか記憶があやふやだ。こんなの現実じゃない。翼、翼。
 ただ名前を何度も叫んでいた。
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