第四章

 5
「翼、翼」
 小渕司の母親の金切り声が病室に響いてる中、看護師が数人駆けつけてきた。
 そこからは慌しくなって騒然となっていた。
 母親は泣き叫び、自分でも何をしているのかわかってなさそうに気が動転していた。
 小渕司は顔を青ざめ、弟の様子をみながら部屋の隅っこで今にも泣きそうに震えていた。
 さっきまで話していた弟が急に息をしなくなったことにショックを受けている様子だ。
 私は母親の感情がそのまま自分にも流れてくることに胸が痛くて耐えられない。
 子供を失う辛さはどれほど悲しいものなのか、身を抉られている気分だった。
 私はこれ以上ここにいるべきじゃないと、病室を抜け出した。
 そしてすぐさま靴を脱いだ。
 脱いだとたん、その靴は消えていった。
 まだ悲しみがドクドクと体を駆け巡る。涙が出てどうしようもなかった。
 母親の気持ち、小渕司の気持ち、そして私の気持ち。全てが重なって嗚咽してしまう。
「ナルお姉ちゃん、ありがとうね」
 かわいらしい声が私を呼ぶ。びっくりして声がした方向を振り返れば、そこに翼がいた。
「翼君! 一体どうなってるの」
 病室の中はまだ慌しく、処置が続いている。
 驚く私を見ながら、翼は恥ずかしそうにもじもじしている。
「僕ね、これで安心してここを離れられるの。ナルお姉ちゃんのお陰」
「翼君、でも悲しいよ」
「僕も悲しいけど、新しい世界も楽しみなんだ。あの変なおじさんが面白いところ連れてってくれるんだって」
 それを聞いて私は辺りをキョロキョロしてタキシードの男を捜した。
「おじさんはどこかで見てると思うよ。でも僕がお姉ちゃんを案内させてっておじさんに頼んだんだ。お姉ちゃんも今消えかけてるから、僕が見えるんだよ」
 消えかけている?
 そういえば、私も、この時間軸の自分に会えば消えてしまうんだった。
 翼が私に小さな手を差し出した。
「さあ、行こう」
 その手を取ると、急に体が軽くなってふたり一緒に宙に浮く。
「お母さんたちに会わなくていいの?」
「うん。いつかまた迎えにくるから大丈夫だよ」
 吹っ切れたような明るい返事だった。
 どこかでまた繋がると知っているようにも聞こえた。これがお別れじゃないとでもいいたげに。
 私は翼に連れられて、空を飛び、町を俯瞰する。
 頭上では青い空に飛行機雲がまっすぐ伸びていた。
 しばらく風を受けてこの気持ちよさを堪能していると、翼が質問してきた。
「ねぇ、あの変なおじさんは誰だと思う?」
「えっと、誰なんだろう。翼君は知ってるの?」
「うん」
 はっきりと返事した翼。
 当然その答えを教えてくれると思って私は待っていたが、翼は何も言わない。
「えっ? それで、誰なの?」
 私が答えを催促すれば翼はニヤニヤしていた。
「その答えはね、あのおじさんの後ろ姿を見るとわかるよ」
 自分が教えるよりもヒントを与えた方が翼には楽しかったのだろう。
 いたずらっぽい笑顔がちょっとだけ生意気ながらかわいいい。
「あのタキシードの男は今どこにいるの?」
「すぐ戻ってくるよ。僕がナルお姉ちゃんと話がしたいっていったから、時間を少しくれたの」
「あの男と一緒にいた犬だけど、あれは翼君だったんでしょ」
 私が訊くと、翼は少し迷いながら答えた。
「うーんとね、あの犬は未来の犬。僕には未来がなかったから、あの犬の力を借りて中に入ってたの。未来の犬は、僕と関係ない人には見えなかったんだ」
「未来の犬……」
 あの犬も未来がくれば現れるのだろうか。
「あっ、あれ、お姉ちゃんでしょ」
 翼が指差したところは私の家がある場所だった。
 住宅に挟まれたアスファルトの道。
 自分の家の前で、小さな私が誰かとバドミントンをしていた。
 そういえばこの日は確かこどもの日じゃなかっただろうか。
 なんとなくだけどこの場面を見ると少しだけ思い出した。
 小さな自分を見つめ、なんとも不思議な気分だった。
「それじゃ僕はここでお別れ。お姉ちゃん、お兄ちゃんをよろしくね」
「だけど、ちゃんと未来の司君に会えるかな」
「きっと会えるよ。自分を信じて! それじゃ、バイバイ」
「あっ、翼君!」
 私から手を離した翼は、自由気ままに空を飛んでいく。
 それはとても楽しそうに輝いた笑顔だった。
 そして私に手を振りながら空に溶け込むようにゆっくりとその姿が消えていった。
 悲しいというより、元気でねとエールを送りたくなる明るい別れだった。
 楽しく消えていくか……
 私はゆらゆらとその場で浮かび、この先をどうしていいのか小学生の自分の姿を俯瞰しながら迷っていた。
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