第四章
8
さらに時が進み、季節は冬が始まろうとする枯れ葉が舞っていたある日、寒くなったと思いながら友達と下校していた帰り道でのことだった。
気になる女の子がその前をひとりで歩いていた。
先日の英語のスピーチ大会で、僕の中学から代表して出た女の子だ。
スピーチではナルミ・コグレと自己紹介していたけど、木暮成実と言い直すと、なんだか僕の中でハッとするものがあった。
不思議なほど僕の何かの記憶と彼女が重なって知ってるような気分になったのだ。
懐かしいようで、好意を持つような感覚だった。
それでいて上手く説明できない感情に自分自身で困惑する。
体の奥からジンジンとして、僕は彼女に釘付けになった。
彼女のスピーチは学校の代表に選ばれるほどすごいというほどではなかったけど、堂々としてやるしかないという肝の据わった態度が頼もしく、誰よりもそれは印象深く僕の記憶に残った。
そこに僕が知っていた誰かの靴を履くというイディオムを彼女がスピーチに盛り込んでたから、それが僕の心に衝撃を与えた。
それ以来、僕は彼女の事が気になって仕方がない。
クラスが違うから話しかけようにも中々そのチャンスがなかった。
僕はサッカーで少しは有名になって、他の女の子から告白もされた事があるけど、木暮成実は僕のことには全く興味がなさそうだった。
そこまで僕がすごい存在と言うわけでもないのだけど、僕がチラチラ見て目が合うと迷惑そうに視線を逸らされるのが悲しかった。
一度話してみたい。
せめてスピーチがよかったとか言いたかったのだが、接点がないといきなり声をかけていいものか迷っているうちに意気地がなくなっていく。
その木暮成実がひとりで僕の目の前を歩いている。
すれ違いざま、僕は気になって振り返れば、案の定迷惑そうな態度を彼女は取った。
その時、彼女の足元に四つ折りにされた白い紙がぽとっと落ちた。彼女は気づいてなさそうだ。
僕がスタスタと彼女に近寄ると彼女は困惑して立ち止まった。
「これ落としたよ」
彼女の足元に落ちていた紙を拾って差し出せば、「えっ?」と喉から詰まった声を出して驚いた顔を僕に向けた。
前方で僕の友達が早く来いと呼んでいる。
「先に帰ってて」
僕がそういうと、みんなはニヤニヤして冷やかした。
僕はみんなを無視して木暮成実と向き合い、拾った紙をさらに彼女に押し付ける。
「落としたよ?」
あまりにも彼女が驚くので、ちゃんと見てたのにも関わらず僕も自信がなくなった。
「私が?」
気まずそうにしながら、木暮成実は僕からその紙を受け取る。
僕とその紙を交互に見たあと、ゆっくりとそれを開いた。
僕も気になって一緒になって覗き込んだ。
直角に折れ曲がった矢印が大きく描かれているのがパッと目に飛び込んだ。
「あっ、ドウ ザ ライト シング」
木暮成実が呟いた。
「ドウ ザ ライト シング?」
僕も思わず同じように呟いた。
その紙に描かれている矢印の下には文字が書かれていた。
『遠い先の未来の終わりに願った願い事です』
木暮成実はぽかんとし、僕にこの紙の意味を教えてほしいと頭を上げた。
僕も何を言っていいのか分からず、同じようにぽかんとして見詰め合った。
そこに木暮成実を知っている女子生徒がやってきて声をかけてきた。
「ナル、どうかしたの?」
僕が何か変な事をしていると思ったのか、妖しげに見つめられた。
「僕はただ、紙を拾って渡しただけで」
僕が言い訳をしていると、その通りがかりの女の子は紙に書かれている矢印に興味を持った。
「それ何の矢印?」
「こんな矢印が描かれたマグカップを持ってるんだけど、そこにはDo the right thingって書かれてたの。そういう意味かな」
木暮成実が答えた。
「ああ、なるほど、それ面白い。アメリカンジョークだね」
通りがかりの女の子は明るく笑っていた。
「アメリカンジョーク?」
木暮成実も僕も同じように繰り返した。
その女の子は説明する。
「あのね、その矢印、右に曲がってるでしょ。右は英語でright。正しいも英語でright。それを引っ掛けてるの。だから右に曲がれは正しい道に進む、すなわち正しい事をしろっていう意味。だから英語でDo the right thingってなるの」
「ああ! なるほど。そんな意味があったのか。毎日見てたのに気がつかなかった」
木暮成実が感心していた。
僕もその側でドクンとハートが大きく波打った。
正しい道。あの時の靴を履いてなかったお姉ちゃんの言葉でもあった。
その時、木暮成実を見ると、なんだか気持ちが高ぶってドキドキしてしまう。
「棚元さん、なんでそんなこと知ってるの?」
木暮成実が少し悔しそうな表情をしていた。
「いい加減、明穂って呼んでよ。私、ナルと友達になりたいんだよ。あの時のお礼もしたいし」
「あの時のお礼?」
ふたりの会話が弾んでくると、僕も一緒に聞きたくなってしまった。
棚元明穂が言うには、英語のスピーチ大会に参加する予定が、わざとドタキャンしてしまい、その代役として急遽木暮成実が選ばれたと言っている。
自分が帰国子女だから、英語の発音がいいだけで台本を暗記してスピーチするのが嫌だったそうだ。
「ええ、あの時のドタキャンって棚元さんだったの? しかも帰国子女だったの」
「だから、明穂でいいって」
僕の目から見てこの二人の波長は上手くかみ合ってない。
だけど棚元明穂は木暮成実がどうやら好きそうだ。
「あの」
そこで僕もつい声を挟んだ。
「僕、木暮さんのスピーチ聞いたよ。すごくよかった。自分の言いたい事、自分の言葉で話していて、僕はとても感動したんだ。ずっとそれを言いたかった」
僕は一体どうしたというのだろう。
木暮成実に思いっきり気持ちをぶつけているような気がした。
「ナル、小渕君の言う通りだよ。私もそう思う」
棚元明穂も一緒になって褒めた。
「ええ、そ、そんな。でもありがとう」
木暮成実は恥ずかしそうにしていた。
僕をチラッと見ると、照れて笑っている。僕もそれが嬉しかった。
「ナルは飛翔国際高校目指してるもんね」
棚元明穂がちらっともらすと、木暮成実は僕の反応を気にして居心地悪そうにしていた。
「そっか、飛翔国際高校か。それは木暮さんに合ってるかも」
僕が言った後、棚元明穂はハッとして僕に向き合う。
「もしかして、小渕君も飛翔国際高校目指してるの? あの高校、サッカーが強いよね」
「えっ、そ、そうなの? 僕、まだはっきりと決めてないんだ」
「てっきり私はサッカー推薦でその高校に行くんだと思った」
棚元明穂の言葉に木暮成実は反応した。
「サッカー推薦? そんなのがあるんだ」
羨ましそうに、僕を見る。
「サッカーも魅力かもしれない。でも僕はもう少し慎重に考えるよ。でも木暮さんがその高校に行くなら、僕も行きたいかも。なんて」
僕は言ってから慌てた。
木暮成実はキョトンとしてたが、棚元明穂は感づいたみたいにニヤッとした笑みを浮かべた。
「とにかく、ふたりとも頑張ってね。それじゃ、邪魔者は消えるとしよう。ナル、また明日ね」
何かを察した棚元明穂は急にわざとらしい演技をして、先を行ってしまった。
僕は暫く木暮成実と一緒に突っ立って、棚元明穂の帰って行く後姿を呆気にとられて見ていた。