エピローグ

 小渕司から友達になってほしいといわれたあの日、私の心臓は突然はじかれたようにドキッと跳ね上がった。
 それまで全然興味がなかったのに急に彼を意識してしまう。
 それはまるでいつものドアを開いたら、目の前にお花畑が広がっているのを初めて知ったように世界が違って見えてくるくらいびっくりな出来事だった。
 小渕司は落とした紙を拾ってくれたけども、私には全く心当たりがなかったから、一体あの紙はどこからきたのだろう。
 でもあの矢印は、近所のお姉さんがアメリカで買ってきてくれたマグカップに描かれていたものと同じだった。
 毎日それを使って紅茶やココアなどを入れて飲んでるから、私には馴染み深いマークだ。
 それが突然目の前に現れるから不思議でならなかった。
 またアメリカンジョークだったと初めて気がついたけれども、それを知っていた明穂にも驚かされた。
 苦手だと思っていた彼女は、帰国子女だったことにも衝撃を受け、その日から彼女を見る目が変わってしまった。
 次の日、学校で彼女と喋れば色々と彼女の苦労した話を聞かされた。
 能天気だと思ったあの性格は、アメリカンナイズされたフレンドリーさだった。
 ちょっと人よりも抜けたような感じがすると思ったのも、環境が違ったせいで言葉が中途半端になってしまった後遺症だった。(そういっていいのかわからないけど)
 そういう事情を知らなかったから、私は彼女を鬱陶しいと勝手に思って誤解していた。
 彼女を理解すると、物事の考え方が変わって私は次第に好意を持つようになっていた。
 私の心が打ち解けた時、それを待っていたかのように明穂は突然意味ありげにニタついた。
「それで小渕君とは上手くいったの?」
 私から情報を引き出したいとニヤニヤしている明穂。
「えっ、ただの友達だよ」
 普通に言ったつもりなのに、内心浮かれていた気持ちが顔に出て笑わずにはいられなかった。
「なかなかお似合いだよ」
「そんなんじゃないって」
 からかわれているのはわかっているけど、自分でも頬が緩んでいた。
 最後はお互い、馬鹿みたいに笑ってしまった。
 私はつい自分の中で勝手に決めて、狭い心で人を見てしまいがちだ。
 明穂を理解したら、視野を広くすることの大切さに気づかされた気分だった。
 打ち解けて仲良くなるって気持ちいい。
 自分から心を開くと視野が広まる。そんな気がした。
 あの時、小渕司が拾った紙から一気に何かが変わったような気がしてならない。
 たまたま偶然が重なっただけかもしれない。
 あまりにも不思議すぎて自分でも説明がつかないけども、紙に描いていた矢印が私を案内してくれたように思え、私はその紙をありがたいお札のように自分の部屋に飾った。
 ドゥ ザ ライト シング――と、英語を口ずさむ。
 そうすれば正しい方向へ導かれる。
 これで受験も大丈夫のような気がしてくるから、その奇跡にあやかりたかった。
 受験の事を相談する母を交えての三者面談でも、先生が厳しい顔をする中で私は自分の希望する高校へ行きたいと熱意を振るった。
 先生は難色を示したけど、私の熱意に負けてゴーサインを出してくれた。
 私はいけそうな気がしていたから、許可をもらっただけで受かったも同然みたいに喜んだ。
「お前、気が早いぞ」
 先生には呆れられ、横にいた母は恥ずかしそうにもぞもぞしていた。

 その進路が決まった後、廊下で小渕司と出会って呼び止められた。
「僕、やっぱり飛翔国際高校を目指すよ」
「サッカー推薦?」
 私が訊くと、小渕司は首を横に振る。
「一般で受験する。木暮さんも飛翔受けるんでしょ」
「うん」
「よかった。色々と悩んだけど、僕、木暮さんがそこを受けるって聞いたから興味もったんだ」
「えっ?」
 それって、私と一緒の高校に行きたいってことなんだろうか。
「一緒に頑張ろうね」
 小渕司に言われると、ドキッとしてしまう。
 一緒に受験戦争を勝ち抜こうとする戦友を得たような心強さがあった。
 私たちは合格を夢見て頑張る事を誓い合う。
 冬の寒さが増すけども、心はジュッと熱く体から力が漲ってくる。
 その頃、留学生を我が家に迎え入れる話も出てきて、この先の期待に胸がどんどん膨らんでいく。

 そして受験当日。
 あいにくの雨だったけど、天気に左右されないように気持ちを引き締める。
 母が作ってくれた縁起を担いだ豚カツ入りのお弁当を持って、私は受験会場へと出発した。
 地元の狭い道に入ろうとしたとき、前から車が来るのが見えて私は立ち止まる。
 車が過ぎ去っていくのを見送り、水が溢れた側溝に落ちないように私は歩き出した。
 高校に近づくにつれ、傘を持った人たちが多くなり、色とりどりに花が咲いているようにも見えた。
 そんな風に思えたのも少し心に余裕を感じていい調子だったからだ。
 学校の門を過ぎたところで小渕司を見つけた。私は走りより声を掛けた。
「おはよう、小渕君」
「おはよう。とうとう今日だね」
「うん。頑張ろうね」
 お互い顔を見つめ笑顔をかわしあった。
 なんだかいけそうに、そして、高校生になったらもっと小渕司と距離が近くなりそうな気もして、やる気に溢れ私はもてる限りの力を入試に出し切った。
 自分でも手ごたえがあったような気がした。
 その次の日は中学を無事卒業。
 前日の雨は止んだけど、感無量な思いがこみ上げ、それぞれが涙の雨を降らしていた様子だ。
 これで中学生活も終わってしまった。
 次は高校生だ。この先の事を考えるとわくわくとして待ち遠しかった。

 その運命の合格発表の日。
 ドキドキしながら校舎の壁に大きく張り出された紙を見つめ、自分の番号を探す。
 ありますように、ありますように。恐る恐る順番に見ていく。
 ん? あれ? 自分の番号が抜けて次の番号が出ている。
「うそっ!」
 何度見てもそこには自分の受験番号は記されてなかった。
 目の前が真っ暗になり、私は棒立ちになって自分の番号の前後を壊れた機械がそこで引っかかったように何度も繰り返し見つめる。
 そんな馬鹿な。私、落ちたの?
 周りからキャーと甲高い叫びが耳に入ると、様々に喜んでいる声があちらこちらから聞こえるようになった。
 みんなは合格を喜び合って満面の笑顔になっている。
 でも私は顔面蒼白に絶望していた。
絶対受かると思っていただけに、私のショックは計り知れなかった。
「木暮さん」
 魂が抜けた状態で振り返ると、小渕司がハッとして心配そうに目を泳がせた。
「小渕君……私……」
 落ちたと伝える前にポロポロと涙がこぼれだした。
「えっ、そんな」
 小渕司はすぐさま察して、悲壮な顔つきになっていた。
「小渕君はどうだった?」
 ぐずっと洟をすすりながら訊いた。
「僕は受かってた、みたい……」
 言いにくそうに、語尾が弱くなっていた。
「おめでとう」
「あっ、ありがとう。でも」
「仕方ないよ、こればかりは」
「木暮さん、僕、その、なんていうのか」
「気を遣わなくていいから」
 優しい小渕司はきっと何を言おうか迷ってるはずだ。
 私を慰めようとして言葉を選んでも、落ちた事実は変わらない。
 私は溶けてなくなりたいくらいに落胆していた。
 周りは喜び合う人ばかりが目立ち、私はここに居たくなくて及び腰になっていた。
 小渕司もそんな私を見て困るに違いない。
 ひとりになりたいとこそこそとするように後ずさった時、小渕司はそうさせまいとキリッと背筋を伸ばして私に向き合おうとする。
「ねぇ、こんな時にあれだけど、でも僕ずっと前からいいたかったんだ」
 洟がぐずついたまま顔を上げる私に、小渕司は真剣な表情を向けた。
 涙で溢れた私の顔など気にしてなさそうに覚悟を決めて叫んだ。
「好きです。僕と付き合って下さい」
 ビックリしすぎて私の悲しみが一瞬吹き飛んだ。
「えっ? なんで今言うのよ」
「今、言わなかったら、木暮さんが僕から離れていきそうだったから」
「ん、もう!」
 私は感情のままに泣いた。
 悲しいのか、嬉しいのか、腹立つのか、なんだかわからない。
 志望校に受からなくてショックを受けているのに、告白する小渕司の神経もわからない。
「僕にとって正しいことだと思ったんだ」
「私の気持ちはどうなるのよ。もうわけわかんない。責任とってよね」
「えっ?」
 私は小渕司の胸に飛び込んだ。
 そして落ちたショックと告白された驚きに恥ずかしげもなく嗚咽してしまう。
 この先一体私はどうなるのよ?
 思いっきり気持ちをぶつけると、小渕司の手が優しく私の体を包み込んだ。
 今だけは悲しみを忘れようと思えてしまう、そんな温かさだった。
 小渕司が側にいることの心強さに少し癒されていく。
 私の気持ちに寄り添ってくれる小渕司が好きだと、この時、懐かしさにも似た溢れんばかりの温かい思いが心の中いっぱいに広がっていく。
 行きたかった高校に落ちてしまったことは残念でならないし、言葉にできないほど悲しいし悔しい。
 まだその気持ちがくすぶって泣いて体が震えている私に、小渕司が芯のある確信たる声で私に言った。
「三年後、きっと同じ大学に行ってるさ。いっしょにそこへ進もう」
 その言葉に私ははっとする。
 三年後――。
 長いようでいて短いような未来。
 今を考えるよりも先を考えれば、まだまだ逆転可能な進む道はまだ残されている。
 ここで立ち止まって落ち込んではいられない、次へ進むしかない。
 この悔しさをばねに、次は失敗しないようにすればいい。
 未来が私を待っている。
 明日の未来は今の自分次第で書き換えられるに違いない。
 今何をすべきか。
 ドウ・ザ・ライト・シング。
 あの英語の言葉が頭によぎった。それと同時に体から力が漲ってくる。
 私は顔を上げ、小渕司を見つめ涙が残る目を思いっきり細めしっかりと笑った。
 そこに『小渕司が好き』という気持ちも込めて――。


(了)
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